池田町の指定文化財(建造物)
[2018年9月25日]
ID:356
概要
池田町区の氏神八幡神社社務所前に据えられている役居門は、旧松本藩代官所「お他屋(たや)」の門で、江戸期唯一の建築遺構(いこう)である。
「お他屋」は、古く殿小路(こうじ)と呼ばれた現在の2丁目元駅通り、上原家の続きに在って、確かな古記録も残されている。明治維新後は名主大会議場として使用され、明治5年学生発布の折には池田上学校に変わり男子生徒の教育の場とし、また更には病院としても利用された。その後戸長役場となったが、この期間門構えの役を果たし続けた。大正2年池田町村役場が新設されるに及び町村役場の門に移し替えられ、以来56年間役場の門として親しまれてきた。役場駐車場の拡張(かくちょう)にともない、当役居門は再転して八幡神社社務所前に移されたが,松本藩の公的機関建造物の遺構として貴重な存在である。
門について、その構造の大要は次のようである。
門の正面入口に2本の本柱を立て、その後方に控柱(ひかえばしら)を立て、本柱と控柱はそれぞれ2本の貫(ぬき)を通して結び吹き抜けになっている。本柱上には冠木(かぶき)を渡し、控柱上にもこれより規模の小さな冠木を渡している。この冠木の両側に女梁(めばり)・男梁(おばり)を渡し、中央にも1本の角梁(かくはり)を渡して組を強めている。この3本の梁の中央に束を立て棟木(むなぎ)を受けている。両側の束は上部を太く根元を結綿(ゆいわた)で止めた太平束(たいへいづか)・斗(ます)・雲肱木(くもひじき)を載せ棟木を支えている。屋根の椽(たるき)は棟木から男梁上に横たえた桁(けた)に掛け、椽の曲線によって屋根に曲面を表し、破風破(はふ)にもその様相(ようそう)を示している。屋根先は茅負(かやおい)、裏甲(うらこう)を重ね檜(ひのき)の裏板を張り粘土を置いて小型本瓦(ほんがわら)で葺(ふ)きあげ、棟を七宝繋ぎ(しっぽうつなぎ)で箱棟(はこむね)型に積み、棟の両端は鰭(ひれ)付き鬼瓦で押さえ、その上に鯱(しゃち)を載せて威容(いよう)を整えている。
材は屋根裏を除いて欅(けやき)材を用いている。各部規模について、本柱正面22cm、横18cm、切面1.5cm、角型の沓石(くついし)の上に立て、沓石上端より冠木上端までの高さ2.33m、間口両本柱間心真(しんしん)2.2m、控柱は14cmの角材、切面1cm、梯形(ていけい)沓石上に立て、本柱と控柱はその間心真(しんしん)1.2mである。門扉(もんび)は2枚の開き板戸で金具釣りとなっている。正面左右に袖を出し瓦葺きの小屋根を低く、くぐり戸を設けている。総じて装飾的配慮は少ない。
役居門
概要
池田町八幡神社は、池田町役場の南に位置し、池田町区の産土神(うぶすなかみ)として祭祀(さいし)されている。
その勧請(かんじょう)について神社には何等の記録もないが、明科町下押野矢花家文章並びに林中上原茂男家文章によると、現在より360数年前草創(そうそう)の宮であることが判明(はんめい)している。
祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で明治41年の神社合併(がっぺい)により相殿(あいどの)の祭神九竜神(くりゅうじん)を合祀現在に至っている。
社殿の建造年月日の記録ははっきりしないが、江戸初期の建造と推定されている。
本社殿の建築様式は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)(切妻(きりづま)造り平入(ひらいり)の本殿の正面に庇(ひさし)を付け、屋根は優美な曲線で一体として造られる。現在の神社では最も多く用いられる様式で、正面の柱間が一間であることからそうよばれる。)である。
母屋は丸柱、向拝(ごはい)は角柱で柱頭には三斗(みっど)を組んで上部を支えている。社殿は腰が高く、背面を除いて三方に約40cm幅の切目縁(きれめえん)を回し、勾欄(こうらん)もって囲っている。階段は5段で、上り詰めに擬宝珠(ぎぼし)柱を立て、母屋の勾欄と結んでいる。
屋根は向拝(ごはい)部が二重繁椽(にじゅうしげたるき)、他は一重の繁椽{椽(たるき)の幅と椽(たるき)の空き(あき)が等しい}である。全体を銅板で葺き、箱棟(はこむね)を乗せ、両端を鰭(ひれ)付の鬼板で仕切っている。破風(はふ)の曲線は美しく、拝み(おがみ)には蕪形(かぶらがた)の懸魚(げぎょ)を吊っている。鰭の刻みが深く手堅い。桁隠し(けたかくし)は対称形の絵模様を浅く掘り、菊座(きくさ)で押さえている。主家の内法長押(うちのりなげし)と虹梁(こうりょう)間及び、向拝の虹梁と桁間に蟇股(かえるまた)が置かれている。やや肩広ではあるが刻みが厚く、脚間それぞれ異なった絵模様を彫って塗装を施し、趣向に手を加えている。
主家は頭貫(かしらぬき)端、向拝(ごはい)虹梁端には唐草模様(からくさもよう)の簡素な拳形の木鼻を付け胡粉(ごふん)の塗装で仕上げている。海老虹梁(えびこうりょう)はやや上に寄り過ぎた感はあるが、形が美しく、若草の浅彫りと浅い袖切りを付け、僅かながらの塗装の変化を付けている。総体に均斉のとれた伸びやかな造りである。
社殿の造り
社殿正面
概要
当十二神社は、かって池田町一丁目地籍字十二に祭祀(さいし)されていた無格社十二神社で、祭神は土の神、埴安比売之命(はにやすひめのみこと)である。この十二神社の由緒については現在のところ不明である。神社合併令により明治41年11月13日に一丁目社地より合祀(ごうし)された。
社殿にはそれまで八幡神社相殿(あいどの)として九頭竜権現(くづりゅうごんげん)を祀(まつ)っていたが、九頭竜神を八幡神社を合祀し現在に至っている。
社殿の建築年代は江戸時代初期と考察される。社殿に関する記録は、宝暦(1751~1760)記銘の棟札(むなふだ)一葉を有するのみで他には発見されていない。
その様式は珍しく、隅木入春日造り(すみきいりかすがつくり)である。規模は梁間(はりま)1m25cm、桁行(けたゆき)1m21cm、屋根形は正面入母屋(いりもや)形、後部は切妻(きりづま)形、鋼板葺(ふ)き箱棟を載せ、両端鰭(ひれ)付の鬼板仕切りで、軒(のき)は二重繁椽(しげたるき)である。
正面に7段の階を重ね、側面及び正面に切目縁(きりめえん)を繞(めぐ)らし、縁床(えんゆか)高く、八角等面の縁束(えんづか)に江戸期の特徴を表している。母屋(おもや)は丸柱、向拝(ごはい)は角柱、両柱頭には同一形式の三斗(みっど)を組み雲肘木(くもひじき)によって上部を支えている。母屋の四方及び向拝正面には蟇股(かえるまた)を配する。海老虹梁(えびこうりょう)は重量感に富むが、形がやや堅固(けんご)過ぎる。後部妻部(つまぶ)は虹梁上に豕扠首(いのこさす)を組み、上部に小斗(しょうと)雲肘木を載せ棟木を支えている。向拝虹梁端、母家頭貫(かしらぬき)端には異形の拳系(こぶしけい)の木鼻(きばな)を付けている。組の斗(ます)、肘木は唐様(からよう)形式に近く力を感ずる。海老虹梁端、その他木鼻の彫りの絵様は、怪物の咆哮(ほうこう)を思わせる意匠(いしょう)で、地方的な素朴(そぼく)さが窺(うかが)える。階段及び主家の三方に勾欄(こうらん)を繞らし、段の登り詰めに擬宝珠(ぎぼし)柱を立てている。妻破風拝(つまはふおがみ)に猪目懸魚(いのめげぎょ)を吊り、菊座で押さえている。向拝の桁隠(けたかくし)しは三花掛(みつばながけ)に似ているが、彫り透(す)かさず、唐草絵(からくさえ)様の浅彫り菊座押さえである。妻破風(つまはふ)の曲線は美しい。
木鼻と向拝正面墓股
隅木入春日造り
社殿正面
概要
本殿は三間社流造(ながれづくり)、桁行(けたゆき)2.9m、梁間1.9m、これに1.6m余の向拝(ごはい)を出し、7階の階を重ね、三方に榑縁(くれえん)を付け、勾欄(こうらん)をもって本体を巡らし、隅に擬宝珠(ぎぼし)柱を建てている。向拝柱は左右各1本ずつで、中の2本を略している。屋根は銅板に葺きかえてある。棟に箱棟(はこむね)載せ、二重繁椽(しげたるき)で重量感に富んでいる。
梁行は内法長押(うちのりなげし)、頭貫(かしらのき)を通し、出組みの手先平三斗(ひらみつど)で虹梁(こうりょう)を受ける。妻は虹梁笈形付大瓶束(おいがたつきたいへいづか)とし、大瓶束は円棒式(えんぼうしき)で、笈形(おいがた)は妻全体に及ぶ。大形で大瓶束上に組み物をおいて棟木を支えている。
正面・背面・側面は中国の物語や花・ウサギ・鳥・亀・波などの彫刻で彫り、建物の重厚さに装飾美を加えている。
棟札(むねふだ)により、文化8年(1811)6月26日の竣工がはっきり認められる。大工棟梁(とうりょう)は村岡直四郎で、大隅(おおすみ)流の大工であろうと言われている。
祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)である。
社殿
流造り・二重繁椽・海老虹梁等
破風・懸魚・彫刻等
概要
林泉寺は現在の稲荷社のあたりにあり、相当の規模を誇っていたようで、本通りの東側には林泉寺大通りと言われた小路が今でも残っている。
現在伝えられている記録によると、室町時代中期後奈良天皇の天文5年(1536)今から約460年前に建てられた寺であると言われている。その頃は戦国時代と呼ばれていたが、享禄(1528~1531)・天文(1532~1555)お初め頃は世の中も割と安定し、あちこちで神社、仏閣(ぶっかく)が建てられ再興がなされた。
林泉寺は高野山の遍照光院(へんしょうこういん)の末寺(まつじ)であり、ほかに同院の末寺が近辺に5ヶ寺もあった。池田町の林泉寺・大穴山の泉福(せんぷく)寺・曽根原の盛蓮(じょうれん)寺・明科町の光久(こうきゅう)寺・小谷村中土の神宮寺がそれである。これらの寺院は大部分が現在もむかしながらの姿を残しているが、林泉寺だけは惜しくも全くその姿を没している。
天正5年(1536)4月に高野山遍照光院宛に仁科五郎盛信が寄せた寄進状(きしんじょう)には「高野山遍照光院宿坊のために池田の林泉寺屋敷同じく百疋(ひゃっぴき)のところ相添え寄進せられ候者也仍って(よって)件(くだん)の如し」とある。これは林泉寺の屋敷と百疋を寄進したという意味のものである。慶安検地帳によると、林泉寺屋敷は324坪(1069平方メートル)となっている。また享年10年(1725)8月に松本藩に差し出した「池田組高辻并諸色(たかつじならびにしょしき)差出帳によると、林泉寺はお目見江の寺となっている。格式が高い証拠である。松本城主小笠原公より朱印十石を賜ったということも伝えられているが、どの程度の信憑性があったかは定かではない。
寺跡には樹齢3.4百年と思われる欅(けやき)の巨木が残っている。安政3年(1856)11月、池田町には未曾有の大火があって町の大部分が焼けてしまったが、庫裡(くり)と仁王門は幸い焼けないで残ることができた。
明治になって庫裡は学校の建物として使用され、その後料「楓月亭」に模様替えをし、さらに七貴村役場庁舎として役を果たした。仁王門はその後浄念字に移されたが今は見当たらず惜しい限りである。
不動尊の安置されている厨子(ずし)と一緒に、音字建物内に稲荷神社が納められている。
稲荷神社は林泉寺鎮めの神として祀られたもので、神社に対しては寺院の鎮めの寺とし、また寺院に対しては鎮めの神を祀る習わしがあった。神仏混淆(こんこう)とか神仏習合(しゅうごう)思想に影響されてこの稲荷神社が建立されたとみてよい。
稲荷神社は五穀豊穣を護る稲倉魂(うがのみたま)神(宇賀魂神(うがのみたまのかみ))を祀る神社で、広く信仰されてきた。
この稲荷神社の建てられた年代は明確ではないが、林泉寺と同時に建てられたものならばおよそ450年前ということになり、元東京大学教授・藤島亥治郎(ふじしまがいじろう)工学博士の説によれば、約360年位前ということである。
建物の形式は一間社流造(いちげんしゃながれつくり)で、他の流造斗基本的には変わりがないが、特異な点は、彫りを使わずに殆どが絵書き模様であるということである。しかも、その模様は1つの型にはまらず、どちらかというと型破りの傾向に見られることである。型に当てはめて組んだものよりも、動きがあって寧ろ(むしろ)効果的な結果になっている。このことは形式がまだ一般化していない時代の作りと見ることができる。
蟇股(かえるまた)を4個備えているが、これは江戸時代初期に見られる形式である。脚の流を2つの突起で止めている点や、肩に付けられている鰭(ひれ)の形式等にもこの時代の特徴を見出すことができる。金具を使用している建築物は少ないが、この建物の扉の桟(さん)の要所を菊の打ち出し模様で飾ったり、要所を八双金具(はっそうかなぐ)で締め(しめ)たりしている。以上でもわかるように金具を多用している点もこの建物の特徴と見てよい。
擬宝珠(ぎぼし)はきれいな良い形である。屋根はやや粗めの柿葺(こけらぶ)で、棟には箱棟を載せ、両端を鬼板で仕切って雲鰭(くもひれ)で飾っているが、これは後補(こうほ)のものと思われる。
創立年代が460年前とすれば、室町期の戦国時代ということになるが、360年前と仮定すれば江戸初期ということになる。
いずれにしても貴重な建物である。
社殿正面
向拝部の絵様・彫刻・二重繁椽
概要
歌人岡麓(おかふもと)は明治10年東京生まれ。本名は三郎。23歳の時、正岡子規の門に入り長塚節・斎藤茂吉らと知り合い歌の道一筋に精励。後に島木赤彦と通じアララギ派の長老となりました。
内鎌にあるこの草庵は、麓が昭和20年5月、東京の戦火をのがれて疎開し、26年に75歳で没するまでの7年間を過ごしたすまいです。幾多の苦難を乗り越えながら、「刈杙」「ヒムロ」の雑誌創刊に携わり、また「土大根」「湧井」等の歌集を出版し、芸術院会員となりました。
麓は歌と書を通じて地方文化の興隆に尽力。その遺徳を偲んで昭和55年、終焉の家を「内鎌草庵」として復元し、併せて「湧井」の歌集にちなんで歌碑が建立されています。
岡麓終焉の家