名誉町民
名誉町民第1号(昭和63年10月25日顕彰)
ソウル五輪男子マラソンで4位入賞。スポーツの繁栄・進展に貢献、池田町の知名度を全国に広めました。また、その後バルセロナ五輪でも4位入賞を果たすなど、日本のトップランナーとして活躍されました。一線を退いたあとも、複数の学校で陸上部監督をつとめ、マラソン解説者、指導者として活動されています。
(左写真:中山竹通さん)
名誉町民第2号(平成6年4月27日顕彰)
娘である小島孝子画伯の絵画作品等を町に寄付して、町立美術館建設の礎を築き、町の芸術文化の振興に寄与されました。
(左写真:故 小島濱子さん)
町ゆかりの人
上原良司 きけ わだつみのこえ ~特攻に散ったある学徒兵~
上原良司は大正11年9月27日、旧七貴村(現池田町中鵜)に生まれ、旧穂高町(現安曇野市)有明で育ちました。松本中学(現松本深志高校)を卒業後、慶應義塾大学経済学部に進学。昭和18年に徴兵され、昭和20年5月11日、沖縄嘉手納湾の米機動部隊に突入し戦死しました。22歳でした。
上原は、戦没学生の手記集「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)の冒頭に掲げられている遺書「所感」を書き残しました。
上原が出撃前夜に記した所感は、出撃を目前にした真情のほとばしり出た叫びそのものです。この中で上原は、軍国主義日本の特攻作戦を「人間を器械として消耗」と告発し、批判する自由のない日本の敗北を明言しました。にもかかわらず自分が出撃するのは、その後に来る「自由の国日本」のためと言い、さらにその自分に代わって「愛する日本を偉大ならしめられんことを国民の方々にお願いするのみ」と戦後を生きる私たちに自由の国・日本の実現を託したのです。
上原の所感を読んだ青年は「自由の尊さを見失い、付いて廻るはずの責任に背をむける人が少なからずいるが、これでは日本の進むべき道を誤らせた戦争により、自己の地位を固めようとした戦前の権力者達に成りかねない」と感想を書き「あなたのような強い信念と理性を持った人になるのが目標」といっています。
「きけ わだつみのこえ」には家族を思い、国の行く末を憂う言葉が並びます。その言葉に共通するのは、強要されて死地に赴く無念の思いです。
戦争を知らない世代が過半数を超えた今日、「平和な日本」を生きる私たちにとって「自由の無い時代」を生きた上原のメッセージを伝えることが、本当に大切な時期になったといえます。
●上原良司の石碑
上原良司の石碑が、あづみ野池田クラフトパークに建立されました。
石碑は「生誕地・池田町に上原良司の碑をつくる会」(現上原良司の灯を守る会)が町内外に募金を呼びかけ、良司の誕生日の9月27日に完成。「唯願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願ひするのみです」など「所感」の抜粋や良司の略歴などが刻まれています。
(左から)建立の趣意、きけ わだつみのこえ、良司の略歴が刻まれた石碑