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池田町の未指定の文化財

[2018年9月25日]

ID:368

未指定の文化財

1 高山氏の金毘羅神社(渋田見)

  • 員数 1棟
  • 種別 建造物
  • 所有者 高山氏(16軒)
  • 所在地 会染渋田見諏訪神社境内
  • 指定日 未指定

概要

 渋田見諏訪神社の境内の覆屋(おおいや)の中に高山氏16軒で祀る金比羅神社(こんぴらじんじゃ)の社殿がある。この祠(ほこら)は、元東山の高台にあった。明治末期の神社合併によって、諏訪社境内に移されたものという。
 この金比羅神社は、一間社(いっけんしゃ)、流造(ながれづくり)、柿葺(こけらぶき)で、元は覆舎がなかったので、屋根の一部にいたみがみられる。
 この社殿のことにつき、『高山家共有財産管理議事会計簿』(昭和30年度)には次のようなことが記されている。
 安政(文政の書き誤りと思われる)7年正月1日本殿並びに拝殿造営のため長尾組岩原大工立川政吉に金5両2分にて請負に付して建立する。約定書(やくじょうしょ)別紙1札の如し。
 本殿、間口4尺、奥行き5尺
 また棟札には「奉立替金比羅大権現 文政7年甲申(きのえさる)歳閏8月5日」とある。
 これによると前からあった金比羅神社を文政7年(1824)に岩原の大工棟梁立川政吉が建て直したことがわかる。立川政吉の家は代々宮大工をつとめた家で小谷村千国諏訪神社、大潮富士浅間神社、八坂村小松尾諏訪神社、同村一ノ瀬諏訪神社などの本殿建築を寛政から文化(1800~1817)にかけて手掛けている。代々浅川豊八を称(とな)え、大隅流の宮大工であった。高山氏の金比羅神社々殿は、小柄ながら各部が大隅流の彫刻で飾られている。同拝柱上の木鼻には唐獅子と鼻の長い象、妻虹梁(つまこうりょう)上には海馬・兔、脇障子には松竹梅と鶴亀、手挟みには瓢箪・牡丹、支輪には菊水、海老虹梁(えびこうりょう)などには波、水引虹梁には若葉、水引虹梁には鳳凰、向拝唐破風懸魚(ごはいからはふげぎょ)は蟹というような彫刻が見られる。町の文化財に指定されている渋田見諏訪神社本殿の彫刻もすばらしいが、高山氏の金比羅神社の彫刻もそれに劣らず立派である。

社殿正面

脇障子の彫刻

2 池田の舞台(山車)

  • 員数 8台
  • 種別 建造物
  • 所有者 豊町・一丁目・吾妻町・東町・二丁目・三丁目・四丁目・五丁目
  • 所在地 池田八幡神社境内
  • 指定 未指定

概要

 池田八幡神社には、八幡神社と共に十二神社が祀られている。これは明治41年の神社合併により、豊町にあった十二神社を合祀したもので、9月23・24日を十二神社、同月24・25日を八幡神社の祝日とした。
 十二神社の祝日には、町内の舞台8台が曳(ひ)かれ、八幡神社の祝日には2艘(そう)の船曳きと奉納相撲がなされてきた。その後祝日を9月23・24日の二日とし、23日の宵祭りに舞台曳き、曳きが十二神社の出し物であることが忘れられ、八幡神社の出し物と思っている人が多くなっているようである。宵祭りに曳かれる8台の舞台はなかなか見事なものであり、近隣には例がみられない。きらびやかな幕などで飾られ、提灯に灯をともした8台の舞台が八幡神社の境内に集まり、舞台の上で小中学生により囃子(はやし)が奏され、舞台から乗り出した若衆の掛け声がかかると祭りは最高潮に達する。
 舞台は元は2台だけで、2・3・4丁目(上町)と一丁目・吾妻町・豊町(下町)で曳いていたのだという。現在は各町内毎に1台備え8台になっている。

豊町 {横町(よこちょう)}
 舞台の破風(はふ)飾りの鶴の裏に「天明」、人形の三番叟(さんばそう)に「弘化2年(1845)乙巳(きのとみ)年の文字があるとのことであるが{古川寿郎(ふるかわとしお)元池田町議会議長の説}、今回の調査では確認できなかった。
 大正中頃までは、舞台は祭りになると組み立て、祭りが終わると解体して長持ちに納めて保管したが、その後舞台の大修理がなされ、舞台倉も建てられたので組み立てたまま収納されるようになった。

一丁目(下町)
 明治27年10月に松本市の某町より購入したものでる。
 平成12年に3,300万円ほどの費用をかけて大修理がなされた。大工は高山の宮大工八野明である。彫刻の彫りが大変良い。囃子は松本の人から習ったと言われている。


吾妻町
 池田・麻績線の道路開通により、道幅が広くなったので新調したという。池田・麻績線の開通が大正14年であるから、新調したのは昭和初期と考えられる。
 舞台は元吾妻座(もとあずまざ)に置かれていたが、昭和10年頃八幡神社境内に倉が造られそこに移された。

東町
 戦後昭和25,6年頃、滝沢の2台の舞台を購入し、大工荒井正義により1台に組み換えられたものだという。現在は八幡神社境内の倉に置かれている。

二丁目(中町)
 舞台倉の梁に明治34年に新築されたことが書かれている。平成13年、大修理をするため舞台を解体したところ、屋根裏に次のような墨書(ぼくしょ)があり、舞台がいつ誰(だれ)によって造られたかがはっきりとした。今回の大修理は一丁目の舞台と同じ高山の宮大工八野明に依頼し、3,500万円ほどの費用がかかったという。

     明治参拾四辛丑年拾月五日築造
 請負人・彫刻師         東筑摩郡松本町南深志町  清水寅吉
 大工                 東筑摩郡松本町南深志町  矢沢寅二郎
 塗師                 東筑摩郡松本町北深志町  小林重徳
 金物師              下水内郡飯山町      川久保亀吉
                    下水内郡飯山町      鷲守傳吉
     彫刻の銘は古好斎刀・東渓刀(清水寅吉の号である)
     彫刻が素晴らしい。囃子は大町の人から習ったと言われている。

三丁目{上町(わでまち)}
 明治19年9月に高崎市本町二丁目で造られたものを、明治45年9月に購入したものである。舞台は他の町内の舞台と違い「仁和歌(にわか){踊り手}」の舞台として造られたものである。昭和56年から60年にかけて大修理がなされた。舞台は高山の八野忠次郎、幕と衣装は京都の川島織物(かわしまおりもの)、人形は京都の伊藤久重、倉は地元の千葉幸進が修理を手がけた。費用は1,800万円ほどかかり、資金集めには随分苦労したとのことである。幕の刺繍(ししゅう)は華麗で、舞台の造りの様式は他町内と異なり人形は舞台の一番上に飾られ、「弁天様」として町の人たちに親しまれている。

四丁目{安良町(あらまち)}
 大正中頃、二丁目の舞台を参考に穂高の宮大工瀬川棟梁の手で造られたとの話はあるが、舞台はそれ以前からあって、その時は修理がなされたようである。最近舞台を修理した際に、天井裏野地坂に「嘉永5年(1852)棟梁小山常吉郎章孝」との記載があるのが見つかり、この時造られたものと思われる。大黒天の人形は数年前に400万円ほどかけて、京都の人形師に修理してもらっている。
 倉には「安良町(あらまち)」の名が書かれ、中には修理のときの寄付者名簿が掲げられている。

五丁目{新町(しんまち)}
 四丁目から分かれて新しく発展した町で、舞台を新調(しんちょう)したのは戦後になってからである。舞台の材料は町区の材木をもらい、地元の大工・建具(たてぐ)屋・車屋などの力を借りて作り上げられたという。簡素な造りの舞台である。楠木正成(くすのきまさしげ)の人形にする前は、素戔鳴尊(すさのおみこと)の面が使われていたという。舞台は初め五丁目の公民館に置かれていたが、現在は八幡神社境内に移されている。 
※平成15年、舞台を再び新調。

舞台の構造・その他のまとめ
 屋根の造り        三丁目は唐破風(からはふ)、五丁目は切妻平屋根(きりづまひらやね)、その他は切妻起屋根(むくりやね)である。
 庇(ひさし)        起屋根である。
 舞台の造り        三丁目「仁和歌(にわか)造りで3層、その他は2層造りである。どの舞台も1,2層とも高欄(こうらん)を巡らし(めぐらし)、三丁目は手すりも付けている。2層には人形や幣束(へいそく)を乗せるが、三丁目は3層に人形を乗せている。吾妻町と東町は幣束を他は人形である。
人形            豊町{三番叟(さんばんそう)}  一丁目{神武天皇(じんむてんのう)}  二丁目(加藤清正)  四丁目(大黒天)  五丁目{楠木正成(くすのきまさしげ)}
一層            前後に幕(まく) 両側は簾(すだれ)
舞台周囲         五丁目以外は彫刻が施されている。一・二丁目の彫刻は優れている。
舵(かじ)棒と曳き綱   どの舞台も備わっている。一・二丁目の舵棒の先端に渦巻き紋あり。
車輪            3輪(豊町・吾妻町・二丁目・四丁目) 4輪(一丁目・東町・三丁目・五丁目)、一丁目(格子の覆い)、吾妻町・東町(覆い) 二丁目・四丁目(彫刻を施した覆い)、三丁目・五丁目(車輪見える)
提灯(ちょうちん)    2段(豊町・一丁目・吾妻町・東町) 3段(二・四・五丁目) 4段(三丁目)

豊町(横町)舞台

一丁目(下町)舞台

吾妻町舞台

東町舞台

二丁目(中町)舞台

三丁目(上町)舞台

四丁目(安良町)舞台

五丁目(新町)舞台

境内に勢ぞろいした舞台

3  木造十一面観音立像(中ノ郷)

  • 員数 1躯
  • 種別 彫刻
  • 所有者 中ノ郷区
  • 所在地 中鵜中ノ郷
  • 指定日 未指定

概要

 中之郷観音堂に安置されている観音像は、中山山松林寺(しょうりんじ)の本尊であったと伝えられている。松林寺は、現在の東山段丘上にあったといわれ、現に観音堂の地名として残っている。寺は今から約450年前に武田勢によって焼かれてしまったと伝えられている。その後幾多の変遷を経て、現在のお堂に祀られ、村人に崇められている。身の丈97cm、台座は12cm、肩幅25cm、裾の開き約23cmの立像で、纏(まと)っている衣に色彩はないが、肌には金箔を用いている。比較的首が短くて太い。胸は厚く、銅から下は変化に乏しく、全体的に素朴さを感じさせる。
 この像の背部よりやや下がった位置に、十一面観音像の頭部のみが体内仏(たいないぶつ)として埋め込まれている。この頭部は別の像のものを填(は)め込んだもので、かなりの傷みがみられる。
 像の作者については、奈良時代の僧「行基」(668~749)との伝承がある。十一面観音像は、10または11の少面をもつ。正面に慈悲面3・左方瞋怒(しんぬ)面3・狗牙(くげ)上出面3、後ろに暴悪大笑面1、頂上に阿弥陀の化仏(けぶつ)の11面である。また、2臂(ひ){2本の手}の像が普通である。
 この像で見る限り、彫りそのものは、精密とはいえない。
 信仰の対象としてつくられた古い素朴な仏像とみるのが妥当であろう。

木造十一面観音立像に埋め込まれている体内仏



十一面観音立像

4 十王堂の木造十王像等(南足沼)

  • 員数 14躯(奪衣婆等を含む)
  • 種別 彫刻
  • 所有者 広津南足沼区
  • 所在地 広津南足沼十王堂
  • 指定 未指定

概要

 冥界にあって死者の罪業を判断する10人の王が「十王」である。生前に十王の供養をすることにより、十王の裁判を受ける時、その罪を軽くしてもらうことができるとの信仰から祀られたのが十王像である。十王信仰は道教の影響を受けて成立し、冠をつけ道服を着て笏(しゃく)を持った姿に造られている。後に十王それぞれに本地仏(ほんじぶつ)が配され、さらに十三王・十三仏となった。それぞれの王と忌日・本地仏の関係は次のようである。
  秦広(しんこう)王      初七日   不動明王
  初江(しょこう)王      二七日   釈迦如来
  宋帝(そうてい)王      三七日   文殊菩薩
  五官(ごかん)王       四七日   普賢菩薩
  閻魔(えんま)王       五七日   地蔵菩薩
  変成(へんせい)王      六七日   弥勒菩薩
  太山(たいざん)王      七七日   薬師如来
  平等(びょうどう)王     百カ日   観世音菩薩
  都市(とし)王        一周忌   勢至菩薩
  五道転輪(ごりんてんりん)王 三回忌   阿弥陀如来(以上十王)
  連上(れんじょう)王     七回忌   阿しゅく如来
  抜苦(ばっく)王       十三回忌  大日如来
  慈恩(じおん)王       三十三回忌 虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)(以上十三王)

 南足沼の十三堂には、秦広王から五道転輪王までの十王と、地獄の閻魔(えんま)王の妹で三途の川のほとりで罪人の衣服を奪い取り、それを衣領樹(いりょうじゅ)にかける懸衣翁(けんえおう)に手渡すという老鬼女(ろうきじょ)「奪衣婆(だつえば)」(脱衣婆とも書き葬頭河婆(そうずかのばば)とも言う)、人頭杖、罪人と石を吊した天秤(てんびん)、鏡台{鑑は紛失}がそっくり揃って残っている。そのほか十王像と同時に造られたと思われる地蔵菩薩立像と神像2躯が残されており、十王秦広の姿を知るうえで貴重な文化財と考えられる。

 十王像等の法量は次のようである。(丈・幅・奥行き)
  1・秦 広 王   28.2cm  19.0cm  13.0cm
  2・初 江 王   27.4   19.3   13.6
  3・宋 帝 王   27.3   18.3   12.0
  4・五 官 王   27.2   19.0   14.1
  5・閻 魔 王   36.0   26.1   18.2
  6・変 成 王   27.0   18.4   12.8
  7・太 山 王   27.0   18.4   12.8
  8・平 等 王   24.7   18.8   14.0
  9・都 市 王   27.5   18.4   12.5
 10・五道転輪王   28.6   18.1   13.3
    奪 衣 婆   35.7   28.4   17.7
    地蔵菩薩    62.4   15.0   13.5(台42.0)
    神   像   25.5   17.8   14.5
    神   像   24.3   18.8   15.5


 十王像の中では閻魔王だけが少し大きく造られており、他の9体の像はほぼ同じ大きさである。奪衣婆の大きさは閻魔王とほぼおなじである。像はみんな木造彩色(もくぞうさいしき)像で、首の部分ははめ込みになっている。制作年代及び作者は不明であるが、背中の部分に壱から拾までの数字が書かれており、どの像が何王にあたるかを知ることができる。
 十王像等は、堂内の段上に地蔵菩薩を中心に並べられ、奪衣婆は下の段中央に置かれている。
 仏像は、南足沼の人々により大切に管理されているが、ここも過疎に見舞われ、その人数は次第に減ってきている。かつて縁日に「火渡り神事」なども行われたと言うが、今ではそれも絶えてしまっている

 10 9 8 7 6  5  4 3 2 1

閻魔王

奪衣婆

5 延命地蔵菩薩立像(内鎌)

  • 員数 1躯
  • 種別 彫刻
  • 所有者 会染内鎌区
  • 所在地 会染内鎌
  • 指定 未指定

概要

 本尊は内鎌公民館敷地の延命地蔵(えんめいじぞう)堂内に安置されている。
 像の由来については文章等はっきりしないものが残されていないので詳しくはわからないが、内鎌集落では昔から老人が中心になって地蔵尊の祭りを行い、祖先の供養と区民の幸せを願っての集いが続けられている。特に現今は交通機関が発達し、それにともなって交通事故が多発する世情になったので、毎年1月3日を交通安全祈願の日と定め、集落はもちろん他からも老若男女子供に至るまで大勢集まり祭りを開催して一年の安泰を祈願している。当集落は過去に高瀬川の氾濫で随分痛めつけられていることから、水難からの無事を願って延命地蔵に祈願したとも考えられる。
 古老の話によれば、現在地は三度目の位置になるとのこと、数年前に屋根も銅板で葺き替えられ立派な堂になった。
 本体は檜(ひのき)材一木(いちぼく)造りで、きれいな彩色がなされている。左手に宝珠(ほうじゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)を持つ比丘(びく)形の菩薩であるが、錫杖は紛失し両足が欠損しているのが残念である。
  総丈     106.0cm
  仏丈      65.0cm
  台座の高さ   26.0cm

延命地蔵菩薩立像

6 木造薬師如来坐像と十二神将像(日野)

  • 員数 12躯(12神将1躯欠)
  • 種別 彫刻
  • 所有者 広津日野区
  • 所在地 広津日野薬師堂
  • 指定 未指定

概要

 日野集落の西端に、薬師堂が建てられている。この堂には、本尊薬師如来(ほんぞんやくしにょらい)坐像と十二神将像、地蔵菩薩立像が立派な厨子(ずし)の中外に安置されている。
 薬師如来像は本造の坐像で、金箔が施されている。仏丈は32cm、台座の高さは14.5cmである。
 薬師像の背面と台座には「万躰之内 木食山居作」「春日大明神之作 正徳五年乙末の九月吉祥日 大町山居故信上人」その他施主として原氏数人の名が見られる。
 仏像は正徳5年(1715)再興ということであり、それ以前からあった仏像を何かの理由で失い、木食山居が傷んでいるが、山居の作らしい美しい像である。
 日野の薬師堂には、仏丈30cmほどの拾に神将像も祀られている。十二神将は、十二薬叉大将とも呼ばれ、薬師如来の眷属(けんぞく・従者)である。薬師如来の十二の大願に応じてあらわれる薬師の分身ともいえるのもので、それぞれ7,000の眷属を率い、合計8万4千の衆生(しゅじょう)のそれぞれの煩悩(ぼんおう)を転じて菩堤を得させる働きをする。十二神将の名称は、宮毘羅(くびら)・伐折羅(ばさら)・迷企羅(めきら)・安定羅(あんちら)・阿に羅(あにら)・珊低羅(さんちら)・因達羅(いんだら)・波夷羅(ばいら)・摩虎羅(まこら)・真達羅(しんだら)・招杜羅(しょうとら)・毘羯羅(びから)で、普通は甲冑をつけた憤怒(ふんぬ)像である。
 日野の十二神将は、傷みがひどく殆どが手足を失った痛ましい姿であり、中には頭部を失ったものもある。十二躯の内1躯は現在も見当たらない。

十二神将像

木造薬師如来坐像

薬師像の台座に書かれた名

7 道祖神(峰ノ在家)

  • 員数 1基
  • 種別 民俗資料
  • 所有者 広津峰ノ在家区
  • 所在地 広津峰ノ在家
  • 指定 未指定

概要

 峰ノ在家集落の下の旧道沿いに立てられている。
 昭和44年に調査に行って倒れていた石を調べたところ、簡素な彫りの顔が彫られた道祖神であった。
 北安曇郡内には、多くの道祖神が立てられているが、像の刻まれている道祖神は殆どが双体道祖神であり、単独像はこの道祖神だけである。静岡県などには、道祖神単独像が多く見られるようであるが、丸彫り像であり、この道祖神のような自然石に顔だけを刻んだ道祖神は見られない。
 このような道祖神が何時ごろどのようにして造られたかは不明である。北安曇郡の道祖神の古い形は、丸石や陰陽石(いんようせき)、あるいは磧石(せきせき・河原石)を祀ることだったようであり、広津・陸郷・八坂・美麻などには磧石などを積んだ道祖神が各地で見られる。丸石の道祖神は古くからあり、山梨や諏訪方面には今も丸石の道祖神が多く見られる。伊那方面には、奇石や陰陽石を道祖神として祀っている所が大分あるが、峯ノ在家の道祖神のようなものは全く見られない。
 峰ノ在家の道祖神は、自然石を祀(まつ)ることから双体道祖神へ移行する一過程として出現したのではないかと思われる。
 この道祖神は砂岩の自然石で造られており、簡単なトタンの屋根がかけられている。簡素な屋根であっても、このような珍しい道祖神を保護する上からは有り難いことである。これからもこの珍しい道祖神を、大切にしていきたいものである。

自然石に顔を刻んだ道祖神

8 道祖神(北足沼)

  • 員数 2基
  • 種別 民俗資料
  • 所有者 広津北足沼区
  • 所在地 広津北足沼
  • 指定 未指定

概要

 広津北足沼阿弥陀如来堂下の道路沿いに、2基の丸彫りの双体道祖神が立てられている。左側の1基は丸彫りの合掌像で、現在も完全な形を残している。もう1基は像の左上部が欠けており、像の形もはっきりしないほど摩耗している。何れも砂岩で出来ているため、殊更に摩耗が激しいようである。2基の像には、しっかりした鉄骨の小屋がかけられている。元は「やす」屋根を葺いていたが、大変なので鉄骨にしたのだという。屋根がなければ、二つの像は、たちどころに砂になってしまうに違いない。有り難いことである。
 北安曇の道祖神で丸彫り像は、この道祖神と、隣集落の平畑(たいらばたけ)の1基だけであり、大変珍しく貴重なものである。
 地元の人の話によれば、2基の内1基は隣集落から迎えてきたものだという。どちらが迎えてきたものかは不明である。
 道祖神は、古くから丸石や磧石(せきせき){河原石}など自然石であったものが、次第に僧形(そうけい)合掌像・僧形握手像・神官形(しんかんがた)握手像・祝言(しゅうげん)像・文字碑へと変化してきたものと考えられる。北足沼の道祖神の造立年代は銘がなくてはっきりしないが、僧形合掌像であるところを見ると相当古い時代のものと考えられる。北安曇の道祖神で紀年銘(きねんめい)のわかる最も古いものは享保7年(1722)のもので、僧形で施無為印(せむいいん)や与願印(よがんいん)を示しており、八坂や美麻に数基見られる。合掌道祖神には紀年銘のある道祖神は1基も見られない。隣集落平畑の丸彫り道祖神は握手像と見られる像容(ぞうよう)であるがやはり紀年銘は見られない。合掌像から握手像への移行途上のものと思われる。
 北足沼の道祖神には、ワイヤーを通した沢山の穴あき石が数珠状に吊されている。耳の病気の人達が、病気の快癒(かいゆ)を願ってあげたものであり、平畑や菅ノ田の道祖神などにも穴あき石をあげたものが見られる。道祖神調査のとき、美麻村(現大町市美麻)でも「耳の病気」を治してもらうためにお参りにきたのかと聞かれたことがある。

2基の丸彫り双体道祖神

9 徳本上人六字名号版木(坂森)

  • 員数 1枚
  • 種別 民俗資料
  • 所有者 広津坂森区
  • 所在地 広津坂森稲荷社拝殿内
  • 指定 未指定

概要

 広津坂森の稲荷社拝殿内の壊れた厨子(ずし)内に傷んだ虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)像が祀られている。その厨子内に徳本名号(とくほんみょうごう)版木が1枚残っている。
 徳本上人は宝暦8年(1757)に紀州日高に生まれ、寛政年間に大和吉野山中・紀州須が谷山頂で難行苦行の仙人生活をして修験的(しゅげんてき)能力を体得、諸国を巡錫(じゅんしゃく)して念仏講(ねんぶつこう)を創成した人である。
 徳本上人が信濃を巡酌したのは文化3年(1816)のことである。東信から信濃に入り、北信・中信・南信と巡り歩いて、各地で念仏講を開いた。池田町の浄念寺で念仏講を開いたのは、文化13年6月19日から22日までであったことが浄念寺に立てられている名号碑によりわかる。その時に「南無阿弥陀仏」{六字名号}を紙に書いて講に集まった人達に配布したものである。その後書いてもらった六字名号を軸に仕立てたり、石に刻んで立てているところが各地にある。次にそれを例挙してみる。

  浄念寺      文化13・ 6・19~22{御課益(ごかえき)}
  渋田見長生堂   文化13・ 6
  相道寺      文化13・ 6
  鵜山公民館    文化13・ 9・5
  滝沢       文化13
  半在家      文化14・ 5・11
  五丁目観音堂   文政 1・10・16
  内鎌公民館 文政 2・ 1
  正科       文政 2・ 7
  有明(うみょう) 造立年不明

 徳本上人がこの地方を巡錫した文化13年に名号碑を建てている所が多いが、跡になって建てられた所も見られる。
 坂森の版木(はんぎ)は、徳本上人の六字名号を小さな木に刻んで刷り、大勢の人達に配布しようとしたものである。徳本上人の六字名号は、独特な書体で書かれており、「南無阿弥陀仏徳本○十」とあるのですぐわかる。版木で刷った名号札を軸にして所有している家もある。

 徳本上人の六字名号の版木は、江戸時代の念仏講の盛行を示すものであり、大切にすべきものである。紛失が心配されるので、現在は教育委員会で預かっている。

印刷した名号札

版木

10 阿弥陀堂の釈迦涅槃図(北足沼)

  • 員数 1幅
  • 種別 絵画
  • 所有者 広津足沼区
  • 所在地 広津北足沼阿弥陀堂
  • 指定 未指定

概要

 北足沼の阿弥陀堂には、町の文化財に指定されている阿弥陀如来坐像・釈迦如来坐像のほか、多数の木食仏(もくじきぶつ)・観音・毘沙門天・達磨(だるま)などの仏像20数躯と釈迦涅槃図(しゃかねはんず)がある。
 釈迦涅槃図は、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下に涅槃に入る釈迦が中央に描かれ、それを囲んで弟子をはじめ菩薩・鬼畜など、上部には雲に乗り内輪を持った天女、下部には象・牛馬・鹿などの動物、鶏・烏などの鳥類、蛇・かになどにいたるまで諸々の生物が釈迦の死を悲しんでいるようすが描かれている。また上部真ん中に真っ赤な太陽も描かれている。
 涅槃図の画面の大きさは、縦155cm、幅84.5cmで、作者や描かれた年代は手掛かりとなる記録が見当たらず不明である。掛け軸全体では、縦238cm、幅107cmである。

釈迦涅槃図

11 オオモミジ(大峰)[通称オオカエデ]

  • 員数 1本
  • 種別 天然記念物
  • 所有者 森延太郎
  • 所在地 広津大峰高原
  • 指定 未指定

概要

 イロハモミジの変種で、山地の谷間などによく生える。高さ10~13mになり、樹は灰褐色。イロハモミジより葉が7~11cmと大きく、基部は心形で、掌状(てのひらじょう)に7~9裂する。裂片は楕円形または長楕円状抜針形でイロハモミジより幅が広く、先端は尾状にややとがるが、急につきでている。ふちには細かくそろった鋸歯(きょし)がある。4~5月に開花する。雄花と両性花がある。翼果(よくか)は長さ約2cmでほぼ水平に開く。果皮(かひ)は木質化してかたい。
 オオモミジは2種の色素すなわちアントシアン{赤色素→糖分が多いと赤に変色}とクロロヒル{葉緑素→糖分が少ないと黄色に変色}を有し、この変化は日光と気温に関わりが深い。オオモミジがきれいに紅葉するかしないかは、その日の気温に支配されるのである。

現地には下記の説明板が立っている。
○大峰高原の大かえで
昭和22年春、大峰高原開拓団(かいたくだん)により開墾(かいこん)の際発見さ
れた。このかえでの根はどうにもならなかったので、耕地の日当たりを考え根から幹1mを残し、丸坊主にして中央に残した。昭和43年大峰牧場ができ、上に道をつくった際、盆栽のように立派になった楓が再発見され現在に至った。山もみじとしては奇跡的(きせきてき)な大樹に成長、毎年七色の紅葉が楽しめる。大事にしてほしい。
  所有者  森延太郎

○木の大きさ
(1)根元より40cm上の円周 3.1m
(2)木の高さ   およそ13m~15m
(3)枝張り    南北 13.3m 東西 14.6m 
(4)枝分かれ   地上90cmより 南へ5本 北へ2本

秋のオオカエデ

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