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てるてる坊主の館(浅原六朗文学記念館)

[2019年5月14日]

ID:315

てるてる坊主の館(浅原六朗文学記念館)概要

幼いころ口ずさんだ童謡「てるてる坊主」は池田町出身の浅原六朗の作詞によるものです。

からかさを形どった特徴のある屋根の館内には、六朗の文学作品や、蔵書、ノートに書かれた青春日記など、彼の人柄をしのばせる数多くの資料が展示しています。また、交友があった作家たちの書簡および写真、人間俳句集、自筆の書、色紙、執筆に愛用した筆記用具類、父慈朗の出版した諸本その他も展示しております。

てるてる坊主の館(浅原六朗文学記念館)外観

開館時間等
開館時間午前9時30分〜午後5時
休館日毎週月曜、祝日、年末年始
入館料無料

浅原六朗プロフィール

浅原六朗は、明治28年池田町の酒造業飯田屋の四男として生まれました。5歳の時、家の事情で池田を去り、八坂村の叔母の家に13歳まであずけられ、その後家族の住む福島県平町に移りました。
                      

早稲田大学文学部英文学科を卒業後は、実業之日本社に入社、雑誌「少女の友」の編集にあたりました。この頃、鏡村のペンネームで童謡「てるてる坊主」を中山晋平氏の作曲で発表。大正末期から昭和の初めにかけては「不同調」「十三人」「近代生活」の同人となり、プロレタリア文学の台頭に反する新興芸術派の代表的作家として、当時の文壇に新風を巻き起こしました。流麗なタッチで健筆をふるい「混血児ジョオジ」「ある自殺階級者」「女群行進」など百点に及ぶ著作があります。

その後、俳句史上何人も企てなかった純粋で柔軟な俳句の世界(人間俳句)を提唱。句集「紅鱒群(べにますぐん)」「欣求鈔(こんぐしょう)」等を発刊し、「俳句と人間の会」を主宰し、日本大学芸術学部教授としても活躍しました。
昭和52年、82歳にて軽井沢で逝去しました。

池田町が生んだ文学者浅原六朗の世界

文責  井口紀子(いぐちみちこ・故人)

てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のように 晴れたら 金の鈴あげよ

この歌の作詞者浅原六朗は、明治28年2月22日、一丁目で造り酒屋「飯田屋」を営む父慈朗、母たきの四男として生まれました。

六朗が5歳の時、飯田屋は事業に失敗し一家は上京。六朗は八坂村のおばの家(丸山徳弥氏宅)へと引き取られました。

5歳の六朗は何も知らされないまま、おばに手をひかれながら八坂村の坂道を上りました。「二度と住むことのなかった池田の街並みや水面の光る高瀬川が目に焼きついて離れなかった」と後の作品に書いています。八坂村に着いた六朗は、三日三晩おばの背中から降りず、「家へ帰る」と泣き続けたそうです。

八坂村で13歳まで過ごした六朗。親兄弟とは縁が薄く、どこか寂しさの漂うこの少年期は、彼の人間形成や作品に影響したと思われます。故郷を舞台にした作品は「素朴さと、方言のもつ柔らかさと、言い知れぬ冷やかさと、しみじみとした哀感の漂う作品」と評されています。

六朗はひ弱な少年ではなく、反骨精神が強く、言い出したら聞かない少年だったようで、小学校高等科時代は、校長先生の排斥運動を起こしてストライキをしたことがありました。また、六朗が川で魚を取った後にそこへ行っても、魚は一匹もいなかったとのエピソードなどもあり、友からは一目置かれていました。

処女作「鳥籠」を発表するまで

明治41年、六朗は13才で小学校校長の排斥運動を先頭切って行い、けんか両成敗の形で学校を去ったと「秋の望郷」という文章に書いています。そこで父が牧師をしている福島県平町に移りミッションスクールに入学します。

ここでは、母たき、姉菊江、貞と死別し、大正4年20才で早稲田大学英文科に入学します。

この頃から、執筆活動に力を入れるようになり、大正7年、23歳で雑誌「大観」に処女作「鳥籠」を発表します。「鳥籠」は、八坂村で過ごした少年時代の鮮明な思い出が書かれています。

家にとんでくる小鳥に心ひかれた少年が、雄鳥を囮に雌鳥を捕まえる事に熱中する話で、やがて雌鳥は百舌鳥に殺されます。
一方、少年は、家に手伝いに来ている娘に憧れをもつが、娘は村の若者と恋をして、やがて若者の裏切りにあい堕胎薬を飲んで死んでしまうという話とが、いずれも「悲劇的な死」という結末をもって書かれています。

美しい故郷の情景の中で、暗さと残酷さが感じられるこの作品は、六朗が肉親と無理やりにひきさかれたむごい少年時代の思いが根強く影響していると思われます。

六朗は、「信州池田町」の文の中で、「今考えてみるとずい分乱暴な方法で叔母の家にわたられたものだと思う。現在自分の子どものことを考えてそれを思うのである。このためか私自身の性情には、悲しみの心が人よりも多いような気がし、また寂しがりやの性質が根づよくのこされている。」と書いています。

しかし、その後の六朗の作品を通して感じられることは、決してあきらめや投げやりの文学ではなく、実に芯の強い計算された人生から生まれた文学です。

「てるてる坊主」と浅原六朗

六朗は大正9年、25才で早稲田大学卒業後、実業之日本社に入社し、ここで「少女の友」の主筆になります。

「婦人世界」「実業之日本」の記者を務め、同人誌「十三人」を創刊し、多くの作家と交わりをもち文学活動に食い込んでいきます。

この時期、深井貞子と結婚し、中野小滝橋に住むようになります。大正10年、雑誌「少女の友」に浅原鏡村のペンネームで、童謡「てるてる坊主」を発表します。後に中山晋平の曲がつけられ、全国の子どもたちに愛され歌いつがれてきました。しかし、それ以後、六朗は童謡は作っていません。

大正10年に発表された時は、「てるてる坊主の歌」として4番までありましたが、大正12年の楽譜出版時に、「てるてる坊主」と改題されて現在の歌になっています。

  1. いつかの夢の空のよに はれたら金の鈴あげよ
  2. わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんとのましょ
  3. それでも曇ってないてたら そなたの首をちょんと切るぞ

晴れて欲しいと思う人一倍強い六朗の願いがストレートに表現されています。「そなたの首をちょんと切るぞ」の部分について童謡らしくない残酷さ、冷ややかさと言々された向きもありますが、六朗の強い性情から考えた時、情け容赦もなく首を切るということではなく、「このくらい哀願しているのだから、どうか聞き入れておくれ」と、なかば、おどすような気持ちを表現しているように思われます。
 松本城に来た時、浅間温泉の宿で、故郷の絶景を思いながら、純粋な子どもの夢を、六朗なりのおだやかな心境の中で作った、日本の詩「てるてる坊主」でありましょう。

文壇における浅原六朗

大正から昭和にかけて六朗は、新興芸術派の代表的作家として当時の文壇に新風を巻き起こしたと紹介されています。しかしその後、六朗らが中心となって「新社会派文学」が提唱され、芸術至上主義傾向の派と分裂していきます。

「新社会派文学」とは、人物の思想、性格、心理が社会環境の中でどのように影響を受けたか、社会組織の中での位置、経済生活を描く文学です。

「今までの文学上の人物は、社会と切り離された単独個人が多く、社会の情相が、階級が、生活がどうであろうと関係なく科学的考察でなく、作品の主人公は作者の意のままに行動し、その人間が社会の組織の中でどんな位置にいたか、どんな経済生活をもっていたかを考慮描写されることが少なかった・・・。

過去の文学は、ごく一般的に言って、人間性に重きがおかれ、社会性に重きはおかれなかった。しかもその人間性は、いわゆる単独個人であって環境個人即ち社会個人ではなかったのである」。

と、六朗自身、「新社会文学の主要点」として、雑誌「新潮」に提唱しています。

以後、六朗は、新社会派文学の理論をまとめる形で、創作活動をしていきます。

しかし、浅原作品は、私小説論(小林秀雄)や純文学にして通俗小説(横光利一)ほどに発展せず、徹底したものにはなりませんでした。

頑固で無駄がなく、自分をコントロールできる超現実主義の六朗は、作品の上でも、潤いや面白みが少なく魅力に欠けると評されたこともありますが、生まれながらに鋭敏な感受性のもち主で、多難な人生経験を経てきた、ロマンチストの一面を持つ六朗には、作家として異色の魅力にひかれます。

出世作「ある自殺階級者」と代表作「混血児ジョオジ」について

昭和2年、六朗は32歳で「ある自殺階級者」を「新潮」に、昭和6年、36歳で代表作「混血児ジョオジ」を「中央公論」にそれぞれ発表します。

「ある自殺階級者」の主人公は、奴隷的勤労にもかかわらず月給70円しか収入のない労働者でありながら労働者階級にもなり切れず、さりとてインテリのブルジョア的空気からも抜け切れない中級階級のサラリーマンです。

結核を病んで喀血(かっけつ)している妻に優しさを見せながら、カフェの女に会って覇気を求めたり、もう一人の別の女性を求めたりするが嫌われて、結局、自分はなんのために生きていったらよいのか、気力もない人です。妻の着物と自分の着物をひとまとめにして質屋の門をくぐります。そして自分は自殺するよりほかにはないのではないか、この先は、自殺という望みだけが残されていると感じます。右でもない左でもない、いってみれば時代のすき間から生まれた雑草のような人間でプチインテリゲンチャの破滅人生であるといっています。

「混血児ジョオジ」は、売春婦たちに「おたんこなす」と呼ばれ、馬鹿の見本みたいな中間者を主人公にした作品です。さまざまなタイプの売春婦を往復しながら一つの時代に翻奔されて、うたかたのように無視されていく一人のプレイボーイのあわれな姿を描いています。

「混血児ジョオジ」にみる中間階級者の悩みは、六朗自身の文学者としての中途半端な立場の悩みの中から生まれたものとも言えるでしょう。それは、昭和7、8年頃、もり上がってきた労働者運動プロレタリア的な生き方でもなく、芸術的な良心の悩みに徹底した生き方でもなく、左でも右でもない中間階級者のなんとかして生きる道を探りたいという思いを描いた作品かと思います。

人間俳句と浅原六朗

昭和19年、49才で筆を折り俳句を始めます。
昭和23年、出版社「人間社」を興し「名作倶楽部」を創刊、「世界名作物語」を刊行します。
昭和36年、松本市城山公園に「てるてる坊主」の記念碑が建立され、昭和38年、68才の時、池田町で童謡碑の建立除幕式が行われます。
昭和39年に句集「紅鱒群」、昭和47年には「欣求鈔」を刊行します。

本格的に俳句の道へ進んだのは、横光利一氏に進められてからで、紅鱒群が好評であったからと言われています。

「俳句は人生の起伏、また人生の生き様、人間の感情、または人間の裏表ってものをそのまま17文字の中に写せばいい。わびさびもいらないんだ。それが自分の俳句だ。俳句は裸身哀楽の道を保っているのが僕の俳句だよ。芭蕉とか蕪村とか一茶でもないきわめて自分勝手で俳句的に枯れた生き方ではなく生ぐさいかも知れない」と書いています。
  
ふるさとや雪は空青新校歌
 
昭和39年、池田小学校校歌披露の折、池田小学校へ来た時の心境です。

6才までしか住まなかった縁のうすい故郷の小学校の校歌を作ったうれしさ、晴れがましさは六朗の心を青空いっぱいに広げ、思わず湧き上がった句であると思われます。

〜てるてる坊主の館から〜浅原六朗の人間俳句

文責  井口紀子(いぐちみちこ・故人)

浅原六朗人間俳句
〔四月〕

人生のこと嘉し
ときに愉しく
時に寂しく
ときに美しく
春夏秋冬 
(欣求鈔(ごんぐしょう))

人生は楽しいこと苦しいことさまざまなことがありそれに対して、いちいち向かい合っていくから生きている実感重みがある。
〔五月〕しみじみと
小便すれば葱坊主 
(紅(べに)鱒群(ますぐん))
放尿して我にかえり、ふと足元を見れば、葱坊主(ねぎぼうず)がこっけいな顔でつっ立っていて愉しい。
黒揚羽花かたむけて強く吸う 
(欣求鈔(ごんぐしょう))
花をかかえ花弁の奥に嘴(くちばし)をいれて貪欲に蜜を吸う黒揚羽(くろあげは)のエロチズムさえ感じる一句である。
〔六月〕もりもりと
土もりあげてもぐらの馬鹿 
(欣求鈔(ごんぐしょう))
身の危険もわからず、のどかな春の日、地中からもぐらがとぼけたこっけいな顔を出す。
〔七月〕修験者の
鈴うちふられ霧霽(は)るる 
(欣求鈔(ごんぐしょう))
テンポ快く鳴り響く修験者(しゅげんじゃ)の鈴の音は、山道の霧を晴れ上がらせ、行く先々を照らす様だ。
〔八月〕颱風の部屋
藪蚊しづかに鳴きてくる 
(紅(べに)鱒群(ますぐん))
颱風(たいふう)の無気味な一瞬のしじま、ふとどこからか藪(やぶ)蚊(か)のかすかなうなり声が近づいてくる。
〔九月〕あきさめや
田んぼの道を寂光院 
(紅(べに)鱒群(ますぐん))
何を祈るか秋雨の降る田んぼ道を寂光院(じゃこういん)に向かう作者のおだやかな心情が浮かぶ句
〔十月〕紅鱒群粛々ときぬ秋日射す 
(紅(べに)鱒群(ますぐん))
深々と射しこむ秋の陽、水の中では粛々(しゅくしゅく)とではあるが威風堂々(いふうどうどう)と紅(べに)鱒群(ますぐん)が泳ぎくる光景。
〔十一月〕さやさやと
粉雪ふりきぬ通夜夜ふけ 
(紅(べに)鱒群(ますぐん)) 
妻の通夜、なぜ息たえたのか妻に問いつつ、枕元に座す。外は粉雪がふりしきり夜が更けていく。
〔十二月〕 雪の宿
それぞれの過去匂わす女 
(欣求鈔(ごんぐしょう)) 
雪に降りこめられた湯治の女たちの体から語るに及ばず過去の生きざまがにじみ出ている。
悔ゆることなしいま年末電車 
(欣求鈔(ごんぐしょう))
年末の電車に一人身を埋め、いろいろあったがわが人生十分よい人生だったとしみじみ思う。
〔一月〕ふるさとや雪は空青新校歌昭和39年池田町小学校校歌披露の折、池田小学校へ来た時の心境です。
雪恋いて
ふるさとの山を図解する 
めずらしく都会に大雪が降った日、故郷信州の山々はどんな形に雪が積もったのだろうか。
〔二月〕妻病めば
我れも病むかに悴(やつれ)める 
日に日におとろえゆく病床の妻を見て、自分の心も体も同時におとろえてゆくいら立ち。
〔三月〕糸遊(かげろう)に
溶けてしまいぬ虧蝕(くえ)地蔵(じぞう) 
(欣求鈔(ごんぐしょう))
野のすみのうす汚れた地蔵に、かげろうが暖かそうにまつわりつつみこんでいる

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