|
登波離橋
 |
現在の橋 |
 |
昔の橋(年代不明) |
このページは、地域おこしに努めている陸郷登波離橋愛護会から資料提供いただいています。
陸郷登波離橋愛護会 http://open.sesames.jp/toharibashi/html/_TOP/
●登波離橋の由来
鎌倉時代中期、白駒城主樋口行時には正妻ふじ女と妾妻きよ女がいました。きよ女はふじ女を亡き者にしようと企て、花見の宴を催し橋からふじ女を落とそうと狙っていました。これを察したふじ女は、自分の袂ときよ女の袂を十針縫い合わせておきました。宴が終わった帰り道きよ女はこの時とばかり、ふじ女を橋から突き落としました。しかし袂のつながっていた二人はもろとも谷底へ落ち絶命しました。行時はたいへん悲しみ非を悔いて出家し二人の冥福を祈りました。それ以後この谷には一身二頭の蛇があらわれ、一本の根に二本の幹をもつ松が生えるようになりました。
●真澄遊覧記
江戸時代中期の紀行家・菅江真澄が、信州から東北をめぐり、その見聞を記した「真澄遊覧記」。この中で、天明4年(1784年)、案内人を携えて登波離橋を訪れた真澄は「測り知れぬ大谷に臨んで、西から東に、雲もないところに龍のわだかまるような橋を二つかけ渡してある。一歩踏み出してみるのも危なげで、魂も身から離れるような気持ちがし、渡り越すことが難しく、せめて半ばあたりまでも行ってみたくて、案内の翁に支えられ、身に冷や汗をかいて、途中まで行って返ってきた」と記しています。(下の絵は真澄が遊覧記に描いた登波離橋。写真は明治時代のものです)
●登波離橋の周辺地図(池田ウオーキングマップ) |