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※「信濃池田かるた」は、先人が残した尊い歴史などを、かるたを通して再認識してもらおうと平成6年、豊町の仁科宗一郎さん(故人)と息子の惇さん親子が制作したものです。
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い 池田町発祥元町御陵の木(いけだまちはっしょうもとまちごりょうのき)
池田町の発祥は、いまからおよそ550年前の室町時代前後、文安元年(1444年)中島城主池田十郎藤重によって開かれたといわれます。現在の農村グラウンドあたりを元町といい、そこにあった御陵の木(別に五葉の木ともいわれ、真柏の古木)が、長い間発祥の地とされていました。東の「柳原たんぼは違いがない(凶作はない)」といわれたように、古くから開拓されたことがうかがえます。
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ろ 六朗のてるてる坊主時を告げ(ろくろうのてるてるぼうずときをつげ)
浅原六朗は明治28年、池田町一丁目の飯田屋(酒造業)の末っ子として生まれた。6歳の時、八坂村(現大町市八坂)に移り、少年期を送った。のち早稲田大学に学び、実業之日本社に入り、雑誌「少女の友」の主筆となりました。わらべ歌を童謡にした「てるてる坊主」も、大正年間この雑誌に発表されました。昭和38年9月、八幡境内に童謡碑が建てられ、その後記念館も設けられ、町役場に寄贈されたオルゴールが時を告げています。
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は 八幡社山車にどよめく秋祭(はちまんしゃだしにどよめくあきまつり)
池田町区の八幡神社は、かつての一丁目12社を併せ、祭神誉田別命、埴安比女命、九頭竜神を祭り、町区の産土神(氏神)とされている。本来、9月23日の山車(舞台といわれる)8台の祭儀は12社への祭事、翌日の船曳きと相撲は八幡社への奉納、どちらも近隣まれにみる盛典であした。いずれも祭事の発祥はつまびらかではないが、明治のころから行われ、最近まで9月23・24・25日の3日間が祭日であった。
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に にぎやかに人と物資の宿場町(にぎやかにひととぶっしのしゅくばまち)
池田町は古くから宿場町として栄えました。北越に旅する千国街道(糸魚川街道)や長野へ越す善光寺街道などは、北への幹線道路であり、池田宿も千国街道の重要な宿場であった。時代によりその道筋や呼び名に変化はありましたが、とめ屋(宿屋)、踏込(ふんごみ)茶屋などの呼称は、バスや鉄道が設けられる大正時代ごろまで生きていました。またいわゆる塩の道と呼ばれるのも、海なし地方にとって生活の必要物資の交流を切実に語るものです。
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ほ ほのぼのと気品ただよう菖蒲園(ほのぼのときひんただようしょうぶえん)
相道寺地籍のほぼ中央に、およそ1段歩(10アール)の菖蒲園が開かれたのは今から12年前のことです。町に潤いをと考えた一丁目の故小野勝氏、相道寺の相馬将門氏らの発案で発足し、理解ある人々の協力を得てその基礎が確立した。いまでは池田町の初夏を飾る品位ある花園となったが、その管理、維持にはなみなみならぬ努力と協力が必要である。
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へ 平和像守れ戦火のない地球(へいわぞうまもれせんかのないちきゅう)
平和像は池田町役場正門前のコーナーに昭和63年8月に建立されました。その年、第4回全国池田サミットが当町で開かれ、平和宣言が採択された記念である。その折各市町村から記念の石が届けられ、平和像の周囲に配置されました。戦火のない平和の願いは人類の悲願であり、その思いを込めて制作されました。作者は当町在住の内川博(ブロンズ)、今溝訓(石彫)の両氏です。
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と ともどもに池田サミット栄あれ(ともどもにいけだサミットさかえあれ)
全国の同名池田町が、信頼と友好、そして互いの発展を願って昭和60年、池田サミットが結成されました。北は北海道から、長野・岐阜・福井・香川・徳島の6町でした。その後、昭和63年、当町での第4回サミット開催にあたり、大阪府池田市が加わって1市6町となりました。順次各府県を巡回し、政治・経済・文化全般にわたり、初期の目的に沿って成果があげられています。
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ち 長者池白駒城の家老邸(ちょうじゃいけしろこまじょうのかろうてい)
相道寺から登波離橋への山頂近く、徴かに池の伝承が残っていた。探索の末、700年前にさかのぼる白駒城の家老の邸とされた付近に、泉の湧出と池の跡が現れた。地元の人々を中心に、有志は付近に観音堂を建て、陶製の観音像を祭り、縁りの先人の霊を供養し、地域の発展を祈念することにより、4月末を祭日としました。池のほとりには句碑などが建てられ、保全が図られている。
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り 林泉寺稲荷の造り比類なし(りんせんじいなりのつくりひるいなし)
一丁目、吾妻町地籍にあった林泉寺は、高野山遍照光院の末寺で真言寺院です。寺は安政3年の大火で焼失しましたが、寺に祭られた稲荷社は現存します。一間社流れ造りの建築結構は高く評価され、室町時代の形式を残した江戸初期(約350年前)の作(藤島亥治郎工学博士の説)とされています。お稲荷様は女性神、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)を祭神として、五穀豊穣や現世利益祈ったものです。
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ぬ 額塚や鬼の釜あり古墳群(ぬかづかやおにのかまありこふんぐん)
堀の内にはいくつかの古墳があり、規模壮大な額塚(だ円ないし前方後円墳・未発掘)、そして鬼の釜(円墳・盗掘)がよく知られています。古くから豊かな稲作地を統御した首長の墳墓でしょうか。盗掘された鬼の釜の規模は、直径10メートル余、高さ3メートル余の横穴式石室をもつ円墳です。6世紀から7世紀へかけてのものであり、古くから鬼の釜の呼称をもって恐れられていました。
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る 類焼を防ぐ火屋塀江戸の知恵(るいしょうをふせぐひやべいえどのちえ)
江戸時代の末、安政3年(1856年)11月、池田町に大火があり、現在の三丁目から一丁目まで、町の大半が焼失してしまいました。この折の教訓を生かし、その後の町づくりにあたっては要所々々に小路を設け(いまでもあちこちに残っています)、これを火屋塀といいます。また、簡単には燃えない熱い土塀や、引き倒し家屋などを設けて類焼に備えました。この土塀をうだつとも呼びましたが、現在はほとんど残っていません。
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を 雄々しくも泉小太郎竜に乗り(おおしくもいずみこたろうりゅうにのり)
泉小太郎伝説は、安曇、筑摩から小県にまでおよぶ壮大なものである。別に日光白水郎とも記され、父を白竜王、母を犀竜王という。むかし、ほとんど湖沼であった安筑の地を、山清路の岩山を犀竜王に乗って切り開いて落水、平地にしたという開拓伝説である。晩年は池田の十日市場に居を構え、仏崎の岩穴に隠れ死んだという。川会神社の祭神としてあがめられたが、その妹、妹耶姫は大町の若一王子神社の祭神となっている。
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わ 若松城名のみ残した大遺構(わかまつじょうなのみのこしただいいこう)
第6代松本城主戸田康長は、隠居のための城の構築を池田にきめた。元和5年(1619)から寛永6年(1629)まで11年間工事を進め、内郭はすでにでき、その中に若松を植え、1万5千石を蓄える倉もできた。外郭も一部を残すのみとなって堀にはさざ波が漂っていた。若松城と名づけられたが、7代城主忠光が急逝したため、康長の夢は果かなく消えた。その規模は二丁目、三丁目、東町、吾妻町におよび、殿小路(二丁目旧駅通り)などにわずかに名残りを留めている。近年堀り跡の発掘調査が行われた。
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か 川会の社 延喜の記に光る(かわあいのやしろえんぎのきにひかる)
泉小太郎(別に日光白水郎)を祭神と伝える川会神社の発祥は、遠く古代にさかのぼり、醍醐天皇時代の「延喜式」にその名を留めている。安曇地方で延喜式記載の神社は穂高と川会の二社で、川会神社はその社地を三転して現在に至っているが、その由緒の古いことはこの一事からも察せられる。
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よ 世を変える代官岡郷せぎ開き(よをかえるだいかんおかごうせぎひらき)
松本城主第9代を堀田正盛という。松本在城5年(寛永15〜19、1638〜1642)、残した功績なしといわれるが、池田へは代官岡郷(おかごう)助右衛門を派遣してせぎの開発をさせた。正科地籍の高瀬川から取り水をし、東山山麓を南へ1里(4キロ)の難工事を完成させた。田用幹線水路として米の生産に寄与し、「岡せぎ」の名を残した。城主ともども大きな功績といわねばならない。
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た 滝の沢剣摺鉢に雨を乞う(たきのさわけんすりばちにあめをこう)
滝沢地区の滝の沢には左右7つの滝つぼがあり、それが埋もれていて掘ると雨が降ると伝えられていた。それをお鉢堀りといい、雨乞いのためのお鉢堀りの記録は、江戸時代、寛政9年(1797)うるう7月、それから47年をへた天保15年(弘化元年―1844)7月9日、文久元年(1861)6月25日の3回が記載されている。昭和61年、これらの記録に基き、滝沢の人々(PTA)が沢のお鉢を堀り起したが、深さ3メートル余におよぶ大変な作業であった。
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れ 列をなす百体仏に谷の風(れつをなすひゃくたいぶつにたにのかぜ)
広津区北足沼の百体仏は、四国八十八霊場の諸仏を中心に、弘法大師像、六地蔵、西国・坂東・秩父・信濃霊場碑を加えて百一体現存する。行脚を略して1ヵ所で代拝するために、おそらく江戸末期、広範囲の人々の寄進により、百体の像が揃った。現場は松尾神社に添ったお堂の周りであった。その後松尾神社は葦沼の崩落により現在地に移され、お堂と石仏はそのまま散乱していたが、地区の人々の力で現状に復した。
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そ それぞれに出入りを守る観音像(それぞれにでいりをまもるかんのんぞう)
池田宿の安泰のために豊町の南に詰所をおき、それを端の詰といった。これに対して北の詰所を水またぎといい、旅人を調べたり悪疫の侵入に備えた。その上神仏の庇護を求めて、町の南北出入り口に観音菩薩を祭った。豊町と五丁目の如意輪観音石像がそれである。現在でも、地区では、日を決めてお祭を続けている。
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つ 栂の尾の名を輝かす毘沙門天(つがのおのなをかがやかすびしゃもんてん)
池田町唯一の県宝、つがの尾の毘沙門天は仏界須弥山にあって北方を守護する四天王のひとつであり、別に多聞天と称される。もと中山加賀守の守り本尊として長尾の谷に祭られていたが、地滑り、火災の難にあい、南栂の尾の栂三堂に移された。堂宇新築に併せて復元修理し、現地に移されたものである。寛平6年(894)の作と伝えられ、倉田文作氏の平安中期の作という鑑定と一致する。
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ね 寝もやらず植林学事に小沢翁(ねもやらずしょくりんがくじにおざわおう)
小沢海造翁は生坂村平林家の生まれ。池田町四丁目の小沢家に入婿し、多くの功績を残した。池田町村長時代、寝食を忘れて大峰山に植樹し、一方学務に務めて『学事沿革史』を残した。また、郡、県会議員として広く活躍した。大峰山続き袖沢に、その頌徳碑がある。
山茂み遺徳讃えて仰ぐかな(犀水)
池田人愛で見はやさむ我が手もて緑となせるときわ木の山(空穂)
木をそだて林となして人々のためはかりけるところぞここは(麓)
大粒の雨になりけりほととぎす(虚子) (昭和24年建碑)
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な 夏空にアルプスの雪けがれなし(なつぞらにあるぷすのゆきけがれなし)
安曇節のひとつに、「日本アルプスどの山見ても冬の姿で夏となる」というのがある。私たちにとってこのアルプスの存在がどんなに貴重なものか、直接の恩恵とともに、心を洗う景観美としても忘れることはできない。特に東山山麓地帯からの眺めは安曇野随一と誇ることができる。ということは日本一ということでもある。あまりにも身近なものは、ときにその有難さを見失いがちなものである。
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ら 頼山陽 巣雲たたえ寿碑残す(らいさんよう そううんたたえじゅひのこす)
杉山巣雲は池田学問所の天神様とあがめられた。その寿碑を建立したいと三人の若い弟子たちが京に上り、学者頼山陽に碑文の執筆を依頼した。その熱意に感動した山陽は長文を草し、巣雲を称えた。山陽の楷書はきわめて少ないといわれるが、その真筆が池田に現存していることは貴重である。寿碑は当初文政11年に建てられ、昭和44年、新たに真筆原文のまま、同じく町区八幡社境内に建立された。
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む 宗重が開き築いた池田町(むねしげがひらききずいたいけだまち)
結城合戦(永亨・嘉吉の乱=1440)に参画した中島城主第2代内膳丞宗重(池田十郎藤重)は戦い終るや即刻帰郷し、文安元年水利を治めて池田の地を開いた。これが池田町区発祥の初めとされ、その場を元町と呼んでいる。いまからおよそ550年前にさかのぼる。
(以下、「い」の項参照)
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う 移ろいを流れが語る高瀬川(うつろいをながれがかたるたかせがわ)
池田町の西端を南北に流れる高瀬川。安曇節にも「槍で別れたあずさと高瀬 めぐりあうのが押野崎」とあり、壮大な流れと地勢をよく語っている。ここでは、そういった地勢上のことよりも、池田に欠かせない川の流れに託して、時の流れや池田の歴史に思いを馳せたのである。また、実際に川の瀬や水量は時とともに変わり、自然と人の交錯の相を示してもいるのである。
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ゐ 居ずまいを正して真弓歌の道(いずまいをただしてまゆみうたのみち)
内山真弓は十日市場に生まれ、池田学問所に学んで書道などに優れ、人々の目をみはらせた。和歌を志し、江戸時代の和歌の第一人者香川景樹を師として大成した。多くの著書もあり、特に桂園派の歌論といえる『歌学提要』は、日本文学史上の珠玉とされている。池田学問所第2代の教師でもあった。江戸に出たが帰って和田に住み、そこで病を得て帰郷、嘉永5年、67歳をもって永眠した。町には景樹との交流を示す歌碑がいくつかある。
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の のみの冴え渋田見諏訪社立川流(のみのさえしぶたみすわしゃたてかわりゅう)
渋田見の諏訪社には、江戸時代の神社建築の主流であった立川流、ないしその祖大隅流の様式が見られる。特に装飾の彫り物には東洋的な縁起に基くものがとりこまれ、手挟(たばさみ)の牡丹の篭彫や正面のひょうたんから出る竜の彫りに、立川独自の手法がうかがえる。文化8年、村岡直四郎の手になるという(棟札による)が、池田からは3代立川和四郎富重の直弟子に平林金四郎(藤田屋の先代)が出ている。
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お 大峰の白かば林せみしぐれ(おおみねのしらかばばやしせみしぐれ)
標高1000メートル余の大峰高原は、県の環境保全林として整備され、昭和59年完成した。その中心は天然の白かば林である。特に新緑のころは幹の白さも映え、ひときわ輝く。夏ともなればさまざまなせみの合唱である。自然を生かした遊歩道、キャンプ場、人工池、マレットゴルフ場などの設備も整っているが、周囲の展望もまた素晴らしい。特に大町市方面や北アルプスの眺望は、深さと広がりにおいて類をみない。
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く 草の庵歌と書を生む岡麓(くさのいほうたとしょをうむおかふもと)
歌人岡麓は正岡子規の直弟子で、アララギ派の長老、芸術院会員であった。太平洋戦争末期、東京で戦災を蒙り、昭和20年5月、内鎌に疎開した。大雪渓醸造元薄井氏の援助によるところ大という。滞在中不幸にも令夫人と愛嬢を失い、自らも昭和26年秋、75年の生涯をその草庵で終えた。国文学の造詣深く、かつ書道に長じ、その人徳とともにこの地方の人々に大きな感化を与えた。いくつかの歌碑、内鎌草庵などが残されている。
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や 薬師仏両手に残す慈悲と愛(やくしぶつもろてにのこすじひとあい)
安政3年11月23日、三丁目のお風呂屋から出火し、24日朝にかけて500棟の家屋が焼失した。強い北東の風にあおられてのことで、大事な文化財の焼失も伝えられている。浄念寺の末寺浄光院もその災禍を蒙り、本尊薬師如来像は辛うじて両手を残して灰儘に帰した。その両手が現在浄念寺に保存されている。大きな手は、丈六像といわれる本尊の姿を偲ばせる。
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ま 満快の石碑おおう蔦紅葉(まんかいのいしぶみおおうつたかずら)
十日市場の東に「満快怐vという碑が建てられている。怩ヘ、建武の志士児島高徳の子、源満快の墓だという記録がある。児島高徳は新田義貞の甥義治と足利尊氏を討とうと謀り、露見して追われた。その子三代がここに忍び、その墓を残したのである。怩フ南には源氏屋敷の名も残されている。石碑は昭和12年5月の建立で、花こう岩の碑面には蔦かずらが絡んで、秋には、赤く映えている。町古墳第12号。
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け 花見山のきじ人生を変えにけり(けみやまのきじじんせいをかえにけり)
松本城主水野忠職(ただもと)が花見の山で鷹を使って狩りをした。勢子(せこ)に追われ鷹に蹴られたきじが長福寺の境内に落ちた。これを追った勢子が寺の境内に入ろうとしたところ、住職は境内での殺生は許さぬと、寺の門を閉めてしまった。これがもとで寺は廃され、関係者は追放されるという思わぬ悲劇となった、と伝えられている。ただ一羽のきじが、人間の運命を左右するようなこともある、という話しである。
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ふ 故郷の心を託す俳句坂(ふるさとのこころをたくすはいくざか)
相道寺から登波離橋へかけてのおよそ2キロメートルの道沿に、昭和58年3月、「是より俳句坂」標石に始まり、句碑48基が設けられた。ほぼ40メートルにひとつという間隔で、こじんまりと草陰にひそむ姿には風情がある。安曇野俳句会(発足時は池田俳句会)の創立10周年を記念し、句友の自詠作を中心に、池田町縁りの荻原井泉水、浅原六朗、一時期句作指導をした大阪の池田草衣らの句碑がある。石工は豊町の塩島荘介。石の選定から設置まで献身した。
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こ 古久庄の繭蔵酒蔵男山(こくしょうのまゆぐらさかぐらおとこやま)
大正時代を中心に、明治末から昭和にかけて、池田は製糸業で栄えた。近隣の養蚕業の繁栄とあいまって、最信社を中心とする多くの製糸家があり、二丁目の古久庄平林家はその典型であった。古久庄は同時に銘酒「男山」の酒造元であった。明治の末に造営された二つの蔵は、繭蔵、酒蔵としての役割を終えたのち、(株)黒田狭範の工場などに活用されたが、平成2年、平林家と黒田工業の力で文化財として修復、活用されることになった。
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え 縁結びやすでふかれた道祖神(えんむすびやすでふかれたどうそじん)
民間信仰の中でもっとも多様な意味をもち、また数多く現存する神が石像道祖神である。古くは村の辻々に建てられて、疾病・悪魔などの侵入を防いだり、旅の無事を祈念したり、男女の和合を念願するなどの対象であった。正月に松飾りとともに供えられたヤスで石像を覆う習慣もあったが、現在はほとんど見られなくなった。相道寺菖蒲園の南に、こんにちなおヤスでふかれた道祖神がある。
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て 手提げ板叩き冬空鳥を追う(てさげいたたたきふゆぞらとりをおう)
小正月(1月13〜15日)の行事として、かつて「鳥追い」がおこなわれていた。苗代を荒らす鳥や、稲穂を荒らす雀の害を防ごうとする農民の悲願のひとつで、ひたすら豊作を祈る民俗行事であった。冬の明け方近く、12、3歳ぐらいまでの子供が、歌にあわせて提げ板を木槌で叩いて部落内を練り歩いたものである。ひなびた詩情があったが、現在は、ほとんど絶えてしまった。中島部落で復活させたことがある。
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あ 吾妻座と栄座文化娯楽の座(あづまざとさかえざぶんかごらくのざ)
いつの世でも人々は娯楽を求め、また精神の高揚を図り、教養を求めた。池田には明治19年当時、東町に栄座という娯楽の殿堂があった。その姿はほとんど知られていないが、その後吾妻町に吾妻座が登場した。演劇、映画、歌舞音曲、あらゆる催しが人々を楽しませた。花道や歌舞伎座風のます席を備えていた。トーキー登場後、映画全盛期を経過し、昭和20年代まで心のよりどころとなって消えた。
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さ 前科の名は朽ちるなし正倉院(さきしなのなはくちるなししょうそういん)
奈良東大寺の正倉院は、国内はもとより外国製の優れた宝物が収蔵されている。その中に「前科郷」から献上された素朴な麻布・麻袴がある。献上者の名前が記された貴重なものだが、前科郷は池田の南部を含み、麻の主要産地は現在の鵜山・中之郷あたりではなかったかと想像される。「うやま」とか「かきあげ」といった地名がそれを語っているように思われる。
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き 久兵衛のまことに通う六部怐iきゅうべいのまことにかようろくぶづか)
久兵衛の話しは林中に伝わる義民伝である。いまからおよそ300年前の慶安検地の折、林中新切の久兵衛分の地目が不当に高く評価され、彼はそれに反抗した。その結果、久兵衛は追われる身となったが、年来の久兵衛の恩義を感じた六部(修行僧)夫妻が身代わりとなり、生き埋めとなって殉じた。久兵衛は松川村馬羅尾(ばろう)に潜んでいたらしい。そこには信(のぶ)権現が祭られ、10月17日が祭日となっていて、いまでも林中の関係者がお参りを続けている。
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ゆ 夢乗せて池田鉄道十二年(ゆめのせていけだてつどうじゅうにねん)
大正15年9月19日、信濃鉄道(現大糸線)安曇追分駅から北池田駅まで、池田鉄道は開通した。6.94キロメートル、6駅を14分で走ったが、開通後数年しての世界的な経済不況が響き、「四十雀(始終空=しじゅうから)電車」の異名をとるに至った。発足後11年8ヵ月、昭和13年6月20日、ついに廃業のやむなきに至った。
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め めずるほど岡崎踊り味深し(めずるほどおかざきおどりあじふかし)
正科窯神社の祭典(9月19日が例祭)に、岡崎踊りが奉納されている。いわゆるおかめ、ひょっとこの仮面をつけての踊りであるが、美しい傾城(けいせい=芸者)と醜男(しこお=みにくい庭掃き男)が演ずる人情劇である。鼓笛に合わせた所作や表現はなかなかに豊で、傾城の誠を巧に感じさせている。岡崎から直接伝えられたという。
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み 瑞穂垂るみやけの馬の都行き(みずほたるみやけのうまのみやこいき)
推古天皇は国ごとに「みやけ」を定めたという。「みやけ」とは皇室の御料田とその倉を含めた呼び名である。科野の国のみやけがこの池田にあったらしい。馬飼部、土師部、倉平など、それを偲ばせる地名が、堀之内、正科地籍に残り、最北端にはそのものずばりのみやけ沢がある。また権力者の墳墓と思われる古墳が、堀之内の最深部に散在する。古来池田は米どころとして知られるが、このあたりがその発端といえそうである。
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し 白駒の谷に悲恋の山桜(しろこまのたににひれんのやまざくら)
登波離橋伝説は悲恋の物語である。正応4年(1291)4月15日、花見の宴の折、白駒城主樋口行時は正妻ふじ女と愛妄きよ女の二人を同時に失ってしまった。両者の嫉妬心による争いから、結局二人とも谷間の露と消えたのである。その際、ふたりの袖が十針縫いあわされていたことから、十針橋とよぶとか、妬割橋とも書かれるという。行時は出家して相道寺を営み、ふたりの霊を慰めたという。白駒峡にはいまも山桜が咲き続けている。
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ゑ 描こうよ祖先の夢を平成に(えがこうよそせんのゆめをへいせいに)
私たちには親がある。親にはまたその親がある。いつの世でも、人にはさまざまな夢があったに違いない。果てない夢の実現を願い、祈った祖先の思いを偲び、私たちは私たちなりにその実現を図りたいものである。こんにち私たちがあるのは、どこかで、なんらかの形で先人のお蔭を蒙り、その願いや祈りに支えられている筈である。大事なものは目に見えないのである。
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ひ 人びとの夢で開いた学問所(ひとびとのゆめでひらいたがくもんじょ)
天明8年(1788)、池田の人びとは子供たちの学徳を高めるため、池田学問所を開設した。初代の師に松本藩士だった巣雲・杉山亮蔵を招いて指導を仰いだ。これは日本教育史上まれにみる企てで、池田町にとって大きな誇りである。江戸時代の学問所は武士の子弟のためのものがほとんどであり、池田のように庶民の手で庶民のための教育が行われた例は少ない。しかも明治の学制施行まで続いたのである。学問所は一丁目林泉寺小路北側にあった。
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も もくもくと町を支えた糸繰り女(もくもくとまちをささえたいとくりめ)
大正初期、製糸の中心は、大町から池田に移り、最信社を中心に多くの製糸工場が操業した。糸繰りは座繰りから徐々に機械化されたが、その全工程に女性の労働力が不可欠であった。ひと昔前の女工哀史とは趣を異にするが、町の活気を支えた底辺に、いわゆる女工たちの力があったことを忘れることはできない。
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せ 世情知る幽谷雑誌嚶々社(せじょうしるゆうこくざっしおうおうしゃ)
明治14年1月、仁科学校教員の渡辺敏が社主となり、池田学校の山本英風を編集長とする嚶々社が池田に生まれた。その目的は『幽谷雑誌』を発行し、学術・技芸・殖産興業に関して啓蒙しようとするものであった。その素地は活版印刷業の共益社に始まり、小沢海造、浅原慈郎(六朗の父)、勝山忠兵衛らによる池田町における「信濃出版会社」などの文化的な活動にすでにあったといえよう。
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す 陶を焼く暮らしの煙相道寺(すえをやくくらしのけむりあいどうじ)
江戸時代の明治4年(1767)、焼き物の許可申請が出されて発足し、日用生活雑器が造られた。その後天明3年には越後から瓦師を招いて瓦焼きも始まった。十二段窯の規模といい、発足の古さといい、県下に誇る古窯である。昭和43年に町教育委員会の発掘調査の結果、翌44年には文化庁から文化財として指定を受けた。こんにちの相道寺焼は、昭和47年7月、その伝統を生かすべく復活されたものである。
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ん 運よりは努力のすえの大成果(うんよりはどりょくのすえのだいせいか)
池田町広津地区出身の中山竹通選手は、マラソン界で日本のホープとなった。1984年、第19回福岡国際マラソンで2時間10分で優勝、以来1990年の東京国際マラソンまで、主要な国際大会で5回の優勝を飾っている。この栄誉は一朝一夕に成ったものではなく、高校生時代、広津から町の工業高校までの往復を走って通学したというエピソードが語るように、たゆみない努力の成果であった。池田町名誉町民の第1号でもある。
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