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池田町の指定文化財(美術工芸品)

[2016年12月26日]

ID:357

池田町の指定文化財(美術工芸品)

1 木造毘沙門天立像(栂ノ尾)

  • 員数 1躯
  • 種別 彫刻
  • 所有者 広津栂ノ尾区
  • 所在地 広津栂ノ尾
  • 指定 町指定第2号 昭和45年4月1日 長野県指定 昭和52年11月17日

概要

 この毘沙門天(びしゃもんてん)立像は広津地区栂ノ尾集落の毘沙門堂に安置されている。
 この像の由緒に就いては、中山加賀ノ守一族の守り本尊として請来(しょうらい)された二躯(く)のうちの一躯である。日野沢の南限長尾の谷間、堂屋敷に祀られてあったが、長尾集落の過疎化によって栂ノ尾に移された。地すべりの難に遭い、続いて火災のため堂は灰燼(かいじん)に帰したが、像は幸い搬び(はこび)だされ一旦津賀尾(つがお)神社に併祀(へいし)され、さらに南栂ノ尾の栂三堂(つがみどう)に祀られた。その後昭和46年に文化財保護委員会と地区の人々が話し合って、像の修理と仏殿の新築を決め開眼(かいげん)と、仏殿の落慶(らっけい)式典が挙げられ、以来尊像はここに安置されている。
 本体は檜(ひのき)材一木造り(いちぼくづくり)で法量は略測ながら次の通りである。
  本像高 111.0cm
  項(首すじ)顎 13.7cm
  面張 10.5cm  面奥 13.4cm
  肘張 49.3cm
  足先開(外側) 37.5cm
  夜叉高 13.0cm
 本像については確かな記録を持たず、ただ寛平6年(894)の作りだということだけ伝えられているが、この像を鑑定した倉田文作元奈良博物館館長によれば、平安中期頃の作といい、口伝(くでん)と一致する。これに加えて本像の価値の高さを国宝級の逸品(いっぴん)と証された。
 毘沙門天は別名多聞天(たもんてん)ともいい、仏世界須弥山(しゅみせん)に在って仏法守護に当たる四天王の一尊で、持国天(じこくてん)王(東)、増長天(ぞうちょうてん)王(南)、広目天(こうもくてん)王(西)に伍(ご)し北方守護に当たるといわれ、江戸時代には七福神の一にも加えられ広く庶民に親しまれていた。
 左手には法燈(ほうとう)を掲げ、右手には宝棒(ほうぼう)を握り、両足で天邪鬼(あまのじゃき)踏んで邪悪を押さえている。皮革甲冑(ひかくかっちゅう)に法衣を着流し、短い袴(はかま)に微かに彩色模様を残している。全体の釣合に隙(すき)なく、胴の締まりやその緊張感に古い俤(おもかげ)が漂っている。
 この像が初めに祀られていたという長尾についての記録は、慶安3年(1650)北山村検地帳に「なごう」「びしゃもん」とあり、寛政元年(1789)『池田組村々御改明細諸事書上帳』に北山村北栂之尾に「村持毘沙門」との記録がある。尚、『弘化4年(1847)地震災害絵図』の中に北栂ノ尾の「毘沙門堂」の記載がある。上記は何れも長尾と毘沙門天を証する記録的裏付けであるが、長尾集落の現場を別に「たけはな沢」といい、屋敷跡、畑地跡、田形、堤(つつみ)、水車跡もあって、その一角に堂屋敷と呼ばれている所があり、ここが毘沙門堂の跡地である。
 以上主として信仰面を中心に記述したが、この毘沙門天立像が立派な芸術的であることは改めて言うまでもない。昭和52年に県宝の指定を受けた。
 尚、この像が今日あるのは、堂が火災に遭った祭に、燃え盛る火中に飛び入って像を抱え出した「中山すえ」という女性のお陰であるといわれている。その功績をたたえ永く伝え顕彰したいものである。

毘沙門天立像

2 木造阿弥陀如来坐像(北足沼)

  • 員数 1躯
  • 種別 彫刻
  • 所有者 広津北足沼区
  • 所在地 広津北足沼阿弥陀堂
  • 指定 町指定第7号 昭和45年4月1日

概要

 阿弥陀如来は西方極楽世界に住む仏で、浄土教の本尊であり、無量光仏(むりょうこうぶつ)、無量寿仏(むりょうじゅぶつ)ともいう。この仏を信じて名号(みょうごう)を唱えるものはその功徳(くとく)によって必ず極楽浄土に往生すると説かれている。わが国では、7世紀後半頃から信仰されてきたが、平安時代中頃恵心僧都(えしんそうず)により阿弥陀信仰(あみだしんこう)が力説され、鎌倉時代には法然上人(ほうねんじょうにん)によって独立の教団となった。そのため、平安以降の遺品(いひん)が極めて多く、その姿もさまざまである。印相(いんそう)によって(上・中・下品(げほん)と上・中・下生(げしょう)を組み合わせたもの)9種に分けられている。これを9品の阿弥陀という。北足沼阿弥陀堂の本尊も9品の阿弥陀仏のひとつ、上品下生(じょうほんげしょう)の印相を持った阿弥陀如来像である。
 この如来像は、明治13年頃足沼集落(約40戸)が、大町霊松寺住職安達達淳(あだちたつじゅん)師の勧誘により、霊松寺檀紙(だんし)として基壇(きだん)する際、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺とされた霊松寺の末寺(まつじ)の青龍寺から贈られたものと言われている。
 阿弥陀如来坐像がのせられている台座の裏に「信州松本領安曇群池田組北山村 志ょみだん(須弥壇・しゅみだん) くうでん(厨子・ずし)共 せしょ(施主・せしゅ)宮田儀左エ門」とあり、須弥壇と厨子H地元の宮田氏が施入(せにゅう)したものであり、明治以前のものであることがわかる。台座が阿弥陀如来像が造られた当時のものかどうかは不明である。堂内には旧本尊だったといわれている阿弥陀如来の石像である。
 如来像は檜(ひのき)の寄木造り(よせぎつくり)で、台座の上に、舟形の光背を背負って座っており、全体は漆箔(しっぽく)が施され、螺髪(らはつ)は彫出し、彫眼(ちょうがん)、百毫(びゃくごう)は亡失して穴跡が残り、衲衣(のうえ)は通肩(つうけん)、上品下生(じょうほんげしょう)の印を結んだ結跏趺坐(けっかふざ)像である。
 全高39cm、東部12.7cm、面縦7.5cm、面幅7.4cm、面奥8.8cm、胸厚9.5cm、膝(ひざ)張32cm、臂(ひじ)張21cm、台座高20cm 通形の阿弥陀如来坐像で、螺髪(らはつ)を除いて黒漆(くろうるし)を塗り、上に緊迫を押してある漆箔の手法は近世の手法である。像の制作年代は、室町時代とも言われているが、決定的な資料は見当たらない。
 阿弥陀堂内には、池田町文化財に指定されている阿弥陀如来、釈迦如来両像のほか、釈迦涅槃図(ねはんず)・毘沙門天像・「木食山居作(もくじきさんきょ)」と銘のある阿弥陀如来像2躯・厨子に正徳5年(1751)と銘ある十一面観音像・厨子に享年3年(1718)と銘のある六地蔵像・達磨(だるま)像・小阿弥陀像・石仏像など二十数躯の仏像がある。 

阿弥陀如来坐像

3 木造釈迦如来坐像(北足沼)

  • 員数 1躯
  • 種別 彫刻
  • 所在者 広津北足沼区
  • 所在地 広津北足沼阿弥陀堂
  • 指定 町指定第8号 昭和45年4月1日

概要

 迦如来(しゃかにょらい)像は、インドの信覚者釈尊(しゃくそん)の像である。わが国では仏教伝来とともに信仰され、その遺品も最も早い頃のものが残っている。飛鳥寺(あすかでら)の丈六仏像(じょうろくぶつぞう)法隆寺金堂中の間の本尊などはその例である。釈迦如来像は、尊仏だけ単独に作られることが多いが、脇侍(わきじ)として文殊・普賢(ふげん)両菩薩や薬王・薬上両菩薩を従えているものや、釈尊の十人の高弟十大弟子や八部衆(はちぶしゅう)を眷属(けんぞく)としてまわりに安置しているものもある。北足沼のものは、文殊・普賢両菩薩を脇侍としている。
 北足沼の木造釈迦如来坐像は、阿弥陀如来の前立像として祀られている。この如来像は、前述の阿弥陀如来像と同じく、足沼集落の人達が大町霊松寺に帰壇(きだん)する際に、大町霊松寺住職安達達淳師により北足沼へ贈られたもので、廃寺になった青龍寺の本尊であったと言われている。
 脇侍の台座の裏に「于 寛保二壬戌(1742)六月二十日 施主 壱分清兵衛 壱分傳之丞 壱分次良左エ門 五百武八老母 五百廿四文月江叟(そう) 〆(しめて)壱両壱分 当庵八世月江代」及び「寛保二壬戌六(みずのえいぬ)月吉祥日 施主 弐歩松崎村清兵衛 壱歩北丁傳之丞 壱歩中町次良左エ門 五百文比丁武八老母 五百廿四文月江 当庵八世月江代」とあり、脇侍は寛保2年に大町付近の人達により施入(せにゅう)されたものであることがわかる。「当庵」というのは青龍寺をさすものと思われる。施主名のところに「松崎村」などとあり、この釈迦三尊像がもと大町の方にあったものであり、言い伝えのように北足沼の堂へ贈られたものであることは間違いない。
 この仏像は檜と思われる木造の釈迦如来像で、台座上に結跏趺坐(けっかふぎ)している。全体に漆箔が施され、頭には金銅製透彫(こんどうせいすかしぼり)の宝冠をかぶり、胸にガラス珠を綴づった金銅製の瓔珞(ようらく)を下げた坐像である。高髻(こうけい)・天冠台(てんかんだい)彫出し・地髪筋彫り・百毫亡失(ひゃくごうぼうしつ)・彫眼・衲衣(のうえ)は通肩(つうけん)・禅定印{法界定印(ほっかいじょういん)}を結んだ如来像である。
 全高45cm・頭9cm・面幅8cm・面奥10cm・胸厚10.7cm・膝張29.5cm・臂張20cm・台座高31.5cmである

(左から)普賢菩薩・釈迦如来坐像・文殊菩薩

4 木造如意輪観音坐像(浄念寺)

  • 員数 1躯
  • 種別 彫刻
  • 所在者 浄念寺
  • 所在地 池田三丁目
  • 指定 町指定第31号 平成7年9月28日

概要

 浄念寺は浄土宗の京都知恩院の末寺で、大永元年(1521)5月8日仁科盛政開基(かいき)、崇蓮社徳誉(すうれしゃとくよ)上人開山(かいさん)の寺である。安政3年(1856)11月23日の池田町大火で伽藍(がらん)を焼失し、明治5年松本藩の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺になったが、堂16年3月30日に再興が許可され、社の宮本神宮寺の本堂をゆずり受けて寺が再建された。
 この如意輪観音(にょいりんかんのん)坐像は、東町堺堂(さかいどう)の本尊を勧請(かんじょう)してこの寺に移されたものである。如意輪観音坐像は総丈172cm、仏丈101cm、台座の高さ51cmである。背面下部に「法国光明仏(ほうこくこうみょうぶつ) 山居法阿(さんきょほうあ)六世木食故信(もくじきこしん)作」との銘が漆泥朱書(しつでいしゅしょ)してある。
 如意輪観音像の作者木食山居は、明暦元年(1655)松本在の山家組新井村水野家に生まれた。寛文7年(1667)13歳の時、子守をしていた3歳の女の子を誤って井戸に落として死亡させ、その責任を感じて、自殺して主人に詫びようとしたところを明阿上人に助けられ、女児の菩提を弔うため出家して明阿の弟子になったと伝えられている。山居は19歳の時に上水内郡小川村の虫蔵山に籠もって木食(もくじき)・単衣(たんえ)の行に入った。やがて山居は仏像造立を始め、千体仏、三千体仏、万体仏の造像の大願をたて、元禄16年(1703)9月には1万体の仏像造像の大願を成就したとの文章が残されている。
 山居は、万体仏造像成就のあと大町弾誓寺(たんせいじ)の住職となり、若一王子(にゃくいちおうじ)神社の三重塔の建立や八坂覚音寺(かくおんじ)の仏像修理をして、享年9年(1724)に70歳で入定(にゅうじょう)している。
 山居の造った仏像は、大町をはじめ北安曇郡・上水内郡・南安曇郡・松塩筑・伊那地区など各地に見られる。池田町内でも正科・3丁目・日野・北足沼・宮之平・有明・日向などの寺堂の仏像には「山居作」の銘が見られる。
 山居作の仏像は20~30cm以下の小さなものが多く、1mを越える大きさのものは、大町長性院(ちょうしょういん)の聖観音立像と池田町浄念寺の如意輪観音くらいである。浄念寺の観音像は等身大の坐像で、その大きさと金箔が施された美しい像容は木食山居の作品としては最高傑作ということができる。この仏像は数ある木食山居作の仏像の代表作として貴重である。

如意輪観音坐像

背面下部の朱書

5 木造阿弥陀如来立像(浄念寺)

  • 員数 1躯
  • 種別 彫刻
  • 所有者 浄念寺
  • 所在地 池田三丁目
  • 指定 町指定第32号 平成7年9月28日

概要

 浄念寺の本尊については、江戸時代中期の享年15年(1730)11月に作成された『池田組池田町村鑑(かがみ)』に記事に「一、浄土宗聖光山浄念寺 本尊阿弥陀三尊 御丈三尺(以下略)」と記してある。現存するこの阿弥陀如来像には造像銘(ぞうぞうめい)がどこにも記されていないので、造像の経緯は不明であるが、本体・光背・台座は同時に造られたもので、その台座中ほどの上敷茄子(うわしきなす)の正面には、浄念寺の寺紋である梅鉢紋(うめばちもん)が透かし彫りされていて、明らかに浄念寺の仏像として造られたものであることが知れる。また像高は足下から頭頂まで87.2cmの立像であり、このことは前掲の『池田組池田町村鑑』に「本尊阿弥陀三尊御丈三尺立像」とあるその本尊の丈とほぼ一致する。
 しかし、現存の像と記録に見える像が同一のものであるかどうかは定かではない。それは、江戸時代末期の安政3年(1856)の池田町村大火で浄念寺伽藍(がらん)が焼失した際、本尊阿弥陀など質しておかなくてはならない事項があるからである。
 像は檜材、寄木造(よせぎづくり)の立像で、肉身は金泥(こんでい)、着衣は漆箔である。総丈149.5cm、仏丈87.2cm、台座の高さ31.8cmである。
 この阿弥陀如来像は、来迎印(らいごういん)の中の上品下生印(じょうほんげしょういん)を結び、左足を幾分踏み出す姿勢で西方浄土からの来迎(らいごう)阿弥陀像である。身にはゆったりと衲上(のうえ・袈裟)を着し、衲上の襞(ひだ)の流は整って美しい。
 衣文(えもん)の刻みかたや漆箔・彩色の仕方からみて、江戸時代中期の造像と思われる。造像は、像全体の衣文の彫り方、漆箔の施し方、台座に蓮弁(れんべん)を植え付け寺紋を彫っていることなど、細部にわたっていたって丁寧な作りの上、全容も均衡のとれた完成度の高い作となっていて、文化財的価値の高い阿弥陀如来像である。

阿弥陀如来立像

6 木造不動明王立像(林泉寺稲荷社)

  • 員数 1躯
  • 種別 彫刻
  • 所有者 池田一丁目・吾妻町
  • 所在地 池田吾妻町
  • 指定 町指定第36号 平成11年6月20日

概要

 不動明王は、五大明王や八大明王の明王部の総主で、悪魔を降し人間の罪を焼き払い、長寿を保って悟りの道に入らしめるという、有り難い王であると言われている。右手に剣を持ち、左手に方便自在の羂索(けんさく)を携えて火の中に立っている。
 林泉寺の不動尊もこの型通りの姿である。その怒りの形相は、悪を射すくめる強い眼力と、相手の心を読み抜く相察の気迫を充分表している。この像の作られた年代や作者は不明であるが、伽藍(がらん)が消えてもなお残されてその面影を拝することのできるのは、仏尊の霊験であり幸せなことである。
 本尊は身の丈53.4cm、台座の高さは26.4cmで、裏面に「権大僧都大阿闍利(ごんだいそうずだいあじゃり)施主俊能法師(しゅんのうほうし)」の記録が見られる。権大僧都は僧正に次ぐ高僧で、阿闍利とは師範の師僧であり、高徳の僧を指している。このことからも不動尊の施主は高位の僧職師範の師僧であったといえる。

不動明王立像

7 検地帳(内山家) 8 検地帳(矢口家)

内山家

  • 員数 16冊3通
  • 種別 古文書
  • 所有者 内山正
  • 所在地 会染 十日市場
  • 指定 町指定第17号 昭和51年9月1日


矢口家

  • 員数 8冊
  • 種別 古文書
  • 所有者 矢口源衛
  • 所在地 中鵜鵜山
  • 指定 町指定第19号 昭和51年9月1日

概要

 検地とは、その文字通り土地の調査のことである。近世幕府・大名が、領地内の農民から年貢(ねんぐ)を徴収する為に、田・畑・屋敷地を1筆ごとの測量し、その土地の広さや・地味等を調べ、耕地に等級をつけ、それに基づいて年貢の割り付けをした。測量には間竿(けんざお)や水縄(みずなわ)が用いられたので、検地のことを「縄入れ」とも「竿(さお)入れ」ともいう。検地は検地役人によって村毎になされ、村高が決定され、村高が年貢徴収の基準とされた。調査した1筆毎に名請人(なうけにん)を定め、その土地の所有権を与えると共に、年貢負担の義務を負わせた。広さの単位として、慶安2年(1649)以降は方6尺を1歩、300歩を1反とした。田地の等級としては、上田(じょうでん)・中田・下田(げでん)、畑地の等級としては麻畑・上畑・中畑・下畑などが用いられた。
 検地帳は検地の結果を記録した帳面である。領主にとっても村にとっても最も重要な著簿であり、領主側と村にそれぞれ1冊ずつ保存された。記載形式はさまざまであるが、池田の慶安の検地帳には、1筆毎に田・畑屋敷地の所在地の小字を右肩に書き、それに並べて田畑の等級(上田・中田・下田・下々田・上畑・中畑・下畑・下々畑等)を書き、その下に面積、名請人を書いてある。帳簿の末尾には各等級ごとの判別を集計して記し、各等級ごとに定められた石盛(こくもり・反当たりの収穫量)と集計反別とを掛け合わせて得た徴収高を記してある。すべての徴収高を合算したものが村高であり、明治初期の地租改正まで検地簿を基に年貢の徴収がなされた。
 下ケ札(さげふだ)には、最初に村名と名請人の名が書かれ、次のその人の上に上田・中田・下田・下々田それぞれの小字名と面積を書き並べ、等級毎の面積の計とそれに相当する徴収高が書かれ、田畑の合計面積と徴収高が書かれている。そのあと屋敷免(やしきめん)を差し引いた残りの高を年貢として納めるように書かれている。
 池田地区の検地は、慶安4年(1651)になされている。「家には慶安の竿請がある。」という人があるが、慶安の検地のころから続く家の古さを誇りにして言う言葉である。慶安の検地は公正を欠いたため、その後何回も再検地がなされている。池田では寛文6年(1666)に花見(けみ)と相道寺の2村、元禄6年(1692)池田町村、同11年(1698)に正科村などで再検地を受けている。その後開かれた土地の検地を新切(しんきり)検地帳といっている。明歴より慶応までの200余年間に、数度から20数度の検地を受けた村もある。池田町では、十日市場の内山家、滝沢の片瀬家、中鵜の矢口家の検地帳や下ケ札(さげふだ)が町の文化財に指定され、大切に保存されている。

検地帳(左)と下ケ札の包み紙(内山家)

検地帳末尾(矢口家)

検地帳と新切検地帳(矢口家)

9 弘化4年善光寺地震池田組大絵図

  • 員数 1幅
  • 種別 古文書(絵図)
  • 所有者 原田恵美子
  • 所在地 中鵜中之郷
  • 指定 町指定第19号 昭和51年9月1日

概要

 弘化4年(1847)3月24日善光寺大地震が発生した。ちょうど御開帳中のことで、全国からの参詣者が多く、地震により焼死或いは圧死した旅人は1,180人、信濃から越後にかけての被害は甚大で、家屋全壊18,447軒、死者7,146人にのぼったといわれている。この地震で、各地に山崩れや地割れが発生し、中でも岩倉山の崩落は犀川を20日もせき止め、その決壊による大洪水によって、下流の田畑・家屋・人畜は大被害を被った。 町の文化財に指定されている『善光寺地震池田組大絵図』は、弘化4年月に池田組の大庄屋を勤めた上原仁野右衛門・山崎参十郎より出されたもので「池田組村々地震二付家潰并荒所荒所見取絵図相認差上申候」と書き添えられている。絵図面には、池田組村々の山崩れ、地割れをはじめ本潰れ家屋・判潰れ家屋が色別にして克明に記されている。それによると、池田組関係の被害は次のようである。

  居宅本懐 120戸   半壊 158戸
    焼失   6戸   浸水   4戸
  御高札場浸水 1カ所
  その他地割れ 山崩れ 多数
  (上押野白崖・法道対岸の鍵山・袖山善集落・相道寺権現沢等)

 池田組では中山山中の被害は殊に大きく、山麓台地上でも大きな被害を受けたが、定平地の村々の被害は少なかった。
 この絵図は、善光寺地震の際の池田組村々の被害情況を知ることができる貴重な資料である。

善光寺地震池田組大絵図(図面の大きさ 385センチ×165センチ)

10 成就院の古文書

  • 員数 11点
  • 種別 古文書
  • 所有者 成就院
  • 所在地 広津平出
  • 指定 町指定第34号 平成11年2月22日

概要

 来鳳山成就院(らいほうざんじょうじゅいん)は、曹洞宗の寺で元享年間(1321~1324)に平井で玄蕃(げんば)・重光の2武将がこの寺を復興したが、その後衰微(すいび)し、天文年間(1532~1555)に日岐城主丸山肥後守守慶(ひごもかみもりよし)が中興、雪庵法瑞和尚(せつあんほうずいおしょう)を迎えて開山した。慶安3年(1650)には幕府から朱印30石を給せられ、寺運は大いに興隆した。五世住持の時に幕府老中柳沢吉保夫人の帰依(きえ)するところとなり、間口15間奥行き10間の本堂をはじめ寺内伽藍(がらん)が整備され、檀家数二千有余を数えるにいたった。その後天保11年(1840)には火災にあい、山門・鐘楼(しょうろう)・禅堂・客殿・衆寮(しゅりょう)・庫裡(くり)などを焼失、さらに明治初年に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の災いにあい、寺は一時廃寺となった。明治15年には寺再興の願いが許可されたが、檀家数は420余戸となった。現在の本堂が新築されたのは、昭和28年になってからである。続いて庫裡・鐘楼なども新築され、寺院の伽藍が整備されてきた。
 この成就院には次のような文章が残されており、町の文化財に指定されている。
 
・禁制札(きんせいさつ){黒印状(こくいんじょう)}
 天正十一(1583)癸羊(みずのとひつじ)黄梅二日 貞慶(さだよし) {黒印}

・寄進状(きしんじょう)
 天正十一(1583)癸羊(みずのとひつじ)黄梅二日 貞慶 {花押(かおう)}

・禁制札
 天正十八(1590)九月四日 出雲守{花押}

・寄進状・禁制札
 慶長寅(1641)九月廿八日 秀政{刻印・弌剣平天下(いっけんへいてんか)印}

・禁制札
 寛永拾五年(1638)刀(どら)ノ三月朔日(ついたち)
                            石川弥左右衛門{花押}
                            三谷権太夫{花押}  
・寄進状・禁制札
 寛永拾六年(1639)夘(う)正月廿日 堀田加賀守正盛{朱印}

・寄進状・禁制札
 慶安元年(1648)子(ね)極月十三日 水出羽守忠職(ただとも){花押}
 
・寄進状・禁制札
 寛文九(1669)酉(とり)九月十一日 水野中務輔忠直{黒印}
 
・寄進状・禁制札
 享保四(1719)亥(い)二月十五日 水日向守{黒印・忠茂}
 
・寄進状・禁制札
 享保十(1725)巳(み)二月朔日 水隼人正(はやとのしょう){黒印・忠恒}
 
・寄進状・禁制札
 正徳四(1714)午(うま)四月日 水出羽守{黒印・忠胤(ただたね)}
 

 これらの文章は、火災の時土蔵にあったために焼失を免れたのだという。
禁制札というのは、寺において乱暴を働いたり、修行をしている坊さんや門前百姓に労役をさせてはならいない、寺の領内で鳥獣を捕ってはならない、寺の境内の竹や木を切ってはならない、若しこれらのことに背くと、厳しく罰することを書いた文章であり、黒印(刻印)を押してあるので黒印状とも言う。黒印ではなく書き判(花押・かおう)を使ってあるものは判物とも言う。寄進状というのは、社寺に財産や金品を寄付したことを書いた文章のことである。
  小笠原貞慶以来、代々の松本城主が寺領を寄進したり、禁制札を掲げて寺の保護を示していることは、この寺の重要さを物語っており、黒印地の他に30石の朱印地があったことからも、成就院が中山山地の中におけるかなり由緒ある寺であることがわかる。

禁制札(黒印)

寄進札(花押)

11 長福寺釈迦涅槃図

  • 員数 1幅
  • 種別 絵画
  • 所有者 長福寺 
  • 所在地 会染滝沢
  • 指定 町指定第33号 平成7年9月28日

概要

長福寺涅槃図の文化的価値
 江戸時代中期に作製された由緒の明らかな涅槃図であり、しかも頗る(すこぶる)大型のものであって、安曇野最古最大のものといえ、文化財としての価値は高い。また、画面の損傷もなく、作製当初の状態がよく保たれていて、江戸時代中期の姿を十分に見取れることも貴重である。

長福寺釈迦涅槃図(しゃかねはんず)の形状
 長福寺釈迦涅槃図は、現状縦260cm・横159cmの和紙に、墨及び岩絵の具や有機顔料の彩色を用いて描かれている。作成以後に画軸仕立ての表装が2度ほど仕直されて、現状では縦370cm・横188cmの本表装の画軸(がじゅく)となっている。作製当初の画軸の大きさは不明であるが、現状の画面の大きさや縦長の表現であることから考えて、涅槃会などにこれを掲げた堂宇(どうう)は、梁(はり)や柱がかなり高くなり、広い内部空間を有する建物向けに造られた画軸であることが窺(うかが)える。
 釈迦はブッダガヤにて尼連禅河(にれんぜんが)のほとり菩提樹下で悟りを開いたのち、インド各地を巡って教化(きょうか)を続けていたが、重病を得、クシナガラ城の跋堤河(ばったいが)のほとり沙羅双樹(さらそうじゅ)の間で没した。その入滅(にゅうめつ・涅槃)場面を描いたものが涅槃図であるが、平安時代までの様式(第一形式)と、それ以後の様式(第二形式)とでは趣を異にしている。長福寺釈迦涅槃図の画面は、鎌倉時代から出現する第二形式によっている。即ち、横たわる釈迦の頭部側の面(向かって左側面)を見せている。また、釈迦が右体側を下に右手枕で横たわり、周囲の会衆(えしゅう)や鳥獣が数を増やしていることなどにも第二形式に見られる手法で、江戸時代一般に行われた涅槃図の形式である。
 主体の釈迦は、画面中央やや下寄りに、全身を金泥彩(きんでいさい)の上、衣紋(えもん)等を切金で表し、髪部(はつぶ)は群青彩(ぐんじょうさい)、口唇(くしん)は朱彩(しゅさい)とし、宝台上に敷かれた赤い敷物に穏やかな表情で横たわる。伸脚(しんきゃく)であることは第一形式以来みえるところであるが、足下に、第一形式にみえていたが大迦葉(だいかしょう)に替わって、毘舎離城(びしゃりじょう)の老女が出現し、手を伸べて釈迦の足に触れているのは第二形式によったものである。
 画面左上には、釈迦の母である摩耶婦人(まやふじん)の姿が描かれている。摩耶婦人が先に送った薬袋(やくだい)は、病床に間に合わず、釈迦の枕辺(まくらべ)に立てられた錫杖頭(しゃくじょうとう)に口を閉じたまま結びつけられている。月は中天(ちゅうてん)にかかり、白く冴えて入滅の寂しさを表わす。
 宝台の周囲には長幹の沙羅双樹8本を配す。(宝台の前に2本、後ろに6本)宝台の周辺には、およそ74人ほどの会衆(えしゅう)が、また、その下方手前には、およそ、73種ほどの大小の鳥獣中魚が、いずれも釈迦の入滅を悲しみ嘆く様を描いている。仏典に登場する想像上の鳥獣もいる。生きとし生きるものすべてに慈しみを施した釈迦の足跡を象徴的に表している。

長福寺釈迦涅槃図の沿革
 この涅槃図には、画面右下に絵師の落款朱印(らっかんしゅいん)が押され、また裏面に貼紙の墨書銘(ぼくしょめい)が記されている。画面の落款(らっかん)には4文字が刻まれていて、上2文字はいま判読できないが、左横が微かながら「久雄」と明らかに読める。また、裏の貼紙の前半部には「窪田岩之丞画之」と記していて、この二つを合わせると、窪田岩之丞久雄と称する絵師の筆になる涅槃図であり、その制作時期も江戸時代中期の宝永2年(1702)正月23日であることが明らかに知れる。

釈迦涅槃の図

部分図

裏面の貼紙

12 佐久間象山書大幟原本

  • 員数 1対
  • 種別 筆跡
  • 所有者 池田八幡神社
  • 所在地 池田三丁目
  • 指定 町指定第11号 昭和45年4月1日

概要

佐久間象山真筆大幟原本(しんぴつおおのぼりげんぽん)
 象山 真筆 紙本【長さ8m 幅1m】
 大幟記載面の辞(ことば){縦書き}
  炳 霊 千 載 祀 嘉永甲寅三月穀旦
  洪 徳 万 民 依 象山平大星書

大幟原本入手の経緯
 この『大幟原本』は象山の遺墨(いぼく)であり、大切に保存されている。
 当町出身の書家、小澤儔一は、友人の塩原魁雅と、しばしば松代の象山の家臣百瀬壽山を尋ね親交が厚かった。その壽山の紹介で、明治27年4月たまたま入手できたものであると伝えられている。
 安政元年(1856)象山44歳の時のものであり、血気ざかりの真筆であるだけに実に逞(たくま)しい傑作である。

佐久間象山
 経世家(けいせいか)。文化8年(1811)2月21日埴科郡松代町(はにしなぐんまつしろまち・現長野市)松代藩佐久間一学の長男として生まれた。幼名を啓之助、のち修理(しゅり)と改め象山と号した。
 父一学は神溪と号し文武に通じ、易学にも精通していた。象山は幼いとき藩老鎌原桐山に経書を学び、町田源左衛門にも就いた。18歳の時、父の跡を継いで藩主真田候につかえ松代藩の武士に武術を教えた。天保4年22歳の時、遊学のため上京、林大学頭・佐藤一斎について二年ほど学び、梁川星巌・渡辺華山らと交わった。一旦帰国したが、天保10年再び江戸に出て、神田阿玉ヶ池に塾を開いて象山書院と名付け、後進を導くと共に高野長英・大沼枕山・坪井信道・藤田東湖・大槻盤渓らと交わって、国事を論じた。天保13年11月海防策を幕府に上書(じょうしょ)した。
 嘉永元年藩命により大砲6門を鋳造(ちゅうぞう)した。また、ガラス・電信機・写真機を制作し、電気治療器を用い、種痘法を研究した。更に欄書を研究し、ハルマ氏和蘭辞書の改訳を計画して、その出版を幕府に進言し、西洋の科学を取り入れることについてつとめた。
 嘉永6年6月ペリーが浦和に来航して世上が騒がしくなったとき、その年の9月門弟の吉田松陰に外国行きをすすめた。そのため安政元年蟄居(ちっきょ)を申付けられた。しかし、時の幕府は、広い学識と進歩的で行動力豊かな象山を必要としていた。
 やがて彼は、文久2年蟄居を許され、元治元年3月、将軍家茂に招かれて上洛し、開港の急務であることを勧めた。ところが、進歩的な行動をとったということで、開国反対の浪士の憤激(ふんげき)を買い、残念なことに、同年7月11日、京都三条木屋町の一角で暗殺された。時に54歳であった。

大幟

象山直筆の原本

13 内山真弓書大幟

  • 員数 1対
  • 種別 筆跡
  • 所有者 鵜山四社
  • 所在地 中鵜鵜山
  • 指定 町指定第20号 昭和51年9月1日

概要

鵜山四社大幟(のぼり)の制作年代は明治27年(1894)で総丈9.24m、幅0.98m、質は木綿の撚糸織(ねんしおり)、厚手の白地三幅よりなる。
 記載面の辞(ことば)は

 憲北辰之居所  嘉永二  (ときあき)祭為 氏子中  解脱翁隷所 印
 斎南山以永寧  嘉永二  祭為 氏子中  解脱翁隷 印

 作者内山真弓は天明6丙午年(1786)に現池田町大字会染十日市場に生まれ、寛政11年14歳の時池田学問所に入った。
 時すでに能書)の誉れが高かったという。香川景樹(かがわかげき)の名声を聞き、詠草(えいそう)を送っているうちに秀才を認められ、その門下に入り高弟となった。49歳の時、杉山巣雲没後の池田学問所を受け継いで、400人に及ぶ子弟を育成した。
 この大幟の原本は嘉永2年(1849)真弓62歳の時の秋祭りに書いたものである。
 真弓は歌人として著名であり、書にも秀でていて、その流麗な行草書体の筆致(ひっち)は人々を魅了した。隷書(れいしょ)の例は少ないが、鵜山四社に献じた書は隷書(れいしょ)の逸品である。郷土の生んだ偉人の手になる筆蹟を、後世に伝えていく意義は大変大きい。

大幟

真弓直筆の大幟

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