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池田学問所

[2016年10月12日]

ID:224

杉山巣雲と池田学問所

池田学問所
8代将軍吉宗は一般の人々の教育を大事に考え、国中に行き渡る事を考えた(1716年~35年頃)。しかし学問の中心は、武士以上の人たちで、松本藩の藩学校は1751年頃から始まった。
池田町村の手習師匠も同じ頃活動を開始している。池田の豊かな米の生産と経済の発展が、教育の気風を高めたと思われる。
それまでの教育は寺子屋であり手習所であって、貧しい人は学ぶことができなかった。しかし池田町村では、村中の人々が、全ての子どもたちに学問を学ばせることを願い、1788年(天明8年)お金を出し合って、林泉寺(仁科氏建立・吾妻町)のかたわらに立派な校舎が建設された。そして「池田学問所」と名づけた。
校舎に名前をつけ、村中で浄財を出し合い、貧富の差も、男女のわけ隔てもなく、村の子どもすべてを対象とした学校は全国的にも極めてまれであり、これは池田の誇りでもある。
学問所には三百人ほどのものが学び、その中に70人もの女の子がいたことは驚きである。当時の一寺子屋の人数が十数人であったことからその規模の大きさが想像できる。授業は朝6時から8時まで読書、10時から4時まで習字。年齢は7歳から15歳までの8年間、11組。1と6のつく日には、「四書」、「五経」、「小学」の講義が行われた。
この学問所の建物は、1856年(安政3年)の大火で焼けたが、2年後に献金によって再建され、1872年(明治5年)筑摩県の学校「池田学校」が置かれるまでの84年間にわたって5代の師匠により、池田の大事な教育の場として立派な足跡を残した。


 杉山巣雲(1764-1835) 71歳
1764年(明和元年)松本藩棒術師範松井津太夫の二男として生れる。名は亮蔵(りょうぞう)、通称は茂樹、字は端翼(ずいよく)、雅号を巣雲
1788年(天明8年) 25歳で祖父の「杉山」を名乗り、武士を辞して、池田学問所の初代師匠として招聘される
1835年(天保5年) 学問所の塾舎で永眠。おくり名は「巣雲端翼居士(そううんずいよくこじ)」
在職46年間。人となりは温厚にして品行端正勤勉。文武両道に秀で好んで謡曲を教えた。


巣雲の教え
「学文所掟」
学文所の生活、学習についての規則。「・・・すべし」と厳しい教えが書かれている。
「しほり草」
家庭においての生活基準。塾生と同時に家庭の父母にも示したもの。「・・・しなさい」と愛情のこもった教えが書かれている。
巣雲の教えには、自分の心を豊かにしていく精神が貫かれており、また幼い時から習い覚えたこと、永い間に身に付けたことは生れた時から持っているものと同じだという考え方が根底にあり、次のような和歌を残している。

  • 人多き人の中にも人ぞなき人となれ人人となせ人
  • みがけただみがけば光る玉ほこの道の中なる道を尋ねて


杉山巣雲先生の寿碑について
巣曇先生の寿碑は2つある。1つは八幡神社境内の西南にある屋根付きの寿碑。これは巣雲が65歳のとき、門人たちが先生の功績を称えて建てられたものである。この寿碑は29歳の関春江(せきしゅんこう)、15歳の吉川玄俊(よしかわげんしゅん)、14歳の上原重翰(うえはらじゅうかん)の3人の若者が内山真弓を介して、当時天下に名前が知られていた大儒学者の頼山陽に巣雲先生を称える文を書いてもらったものである。
頼山陽は書家としても優れ、書の大半は行書、草書だが、この文体は楷書で書かれており、貴重なものである。しかし立てられた寿碑は頼山陽の書ではなく、平安隠士文翼によって書き直されていた。
昭和43年、山陽の原文を使った寿碑を建立しようという話が起こり、実行委員会が組織され、515人もの寄付者の賛同を得て、翌年4月29日社務所の前に新たな寿碑が建てられた。


巣雲と内山真弓・香川景樹・頼山陽の関係
内山真弓は幼少のころ池田学問所で巣雲の教えを受け、その後京都で香川景樹について歌の勉学に励む。
いったん池田に戻るが巣雲の寿碑建立のため、香川景樹と親しく、大儒学者であり、大書家でもある頼山陽に寿碑の文をお願いするために上京する。真弓43歳、景樹61歳、山陽49歳の時であった。
真弓はその後、巣雲の志をついで池田学問所の第2代目の師匠となる。


内山真弓(1786-1852) 江戸後期の国学者・歌人 66歳
1786年(天明6年) 父彦左衛門の1男3女の長男として、十日市場村に生れる。
名は園章、通り名は理兵衛、月観、聚芳園(しゅうほうえん)、解脱翁(げだつおう)、真弓躬などいろいろな呼び名があった。14歳で学問所に入り、杉山巣雲の許で漢学を修める。
1810年(文化7年) 25歳で上京し、香川景樹に学ぶ。在京15年
1824年(文政6年) 38歳で帰郷
1829年(文政11年)京に上り、頼山陽に巣雲の寿碑依頼の介添えをする
1834年(天保5年) 巣雲の後をついで二代目の師匠となる。その間次女と妻を亡くす。五年間在職
1838年(天保9年) 53歳で江戸に出る。武蔵の国埼玉郡平村に住み、歌道の研究と桂園派の歌道を江戸に広める
1842年(天保13年) 57歳で東筑摩郡和田荒井村に招聘され、居を定め、和歌や書道を教える一方、畑や花に親しみ、家を聚芳園と名づけ、穏やかな日々を過ごす
1843年(天保14年)香川景樹逝去
1852年(嘉永5年) 中風症に罹り十日市場に帰るが五月永眠。おくり名「月観院快勇義慶清居士」
1880年(明治13年)明治天皇が中信地方を巡行のとき献上した和歌

  • 敷島の道はあまりに広ければ道ともしらで人や行くらん

主な著書
歌学提要・東塢鶴聲・帰路日記・真袖の記・檀葉集・檀の落ち葉・吾嬬紀行・詠藻日記・榜示杙


香川景樹(1768-1843) 江戸後期の歌人 75歳
1768年(明和5年)~1843年(天保14年)父は鳥取藩士荒井小三次。初名は、純徳・景徳。通称は長門介。号は桂園(けいえん)・梅月堂など。京都で梅月堂香川景柄(かがわかげもと)の養子となる。歌は自然な感情を調べとし、平易な言葉でよむべきとし、『新学(にいまなび)異見』を著し、「しらべの説」を提唱して独自の歌風を創始し、桂園派と称されるようになる。
それは心情の「まこと」を推して「しらべ」に参入することにより、歌の表現を果そうとする復古の道であった。したがってその歌風は清新で、さわやかなリズム感がある。


頼山陽(1780-1832) 江戸後期の儒学者 52歳
1780年(安永9年)~1832年(天保3年)大阪で生まれ6歳まで過ごし広島に移る。
朱子学者頼春水の長男。名は久太郎のち襄(のぼる)。字は子成。号は山陽三十六峯外史と称した。寛政9年18才にして江戸に遊学し尾藤二洲に師事する。1年で帰郷。21歳の時脱藩し、その罪を問われ3年間の蟄居、謹慎。苦悩にめげず詩書画の素養を開花させた。31歳の時、儒者篠崎小竹をたより大阪に出て、やがて京に上り山紫水明処、水西荘で文人生活を送る。漢詩、書、画とその才能は遺憾なく発揮されてゆく。歴史書『日本外史』を著すなど簡潔な名文で、超一流の文人として、歴史家となる。著書は他に『日本政記』『通議』『日本楽府』『山陽詩鈔』『山陽遺稿』などがある。
また数多くの詩文を作り、川中島の合戦を題材にした「鞭声粛々」の詩や、天草洋の風景を詠んだ「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などは幅広く愛誦されている。また、美術の分野では、能書家として著名で、絵画についても「耶馬溪図巻」などの優れた水墨画をのこしている。書の大半は行書、草書であり、最も得意とした、変幻自在に旋回する草書はみごとというほかない。巣雲の寿碑は楷書でかかれており、貴重である。


まとめ
巣雲は池田町村の先生であり、評価は池田内に留まるが、その教えを乞い、見事才能を開花させ、香川景樹の桂園派の重臣として活躍した内山真弓を世に送り出した功績は甚だ大きい。そして当時の大儒学者頼山陽に寿碑を書かせるにいたっては、ひとえに巣雲の教育者としての偉大さを物語るものであり、人間巣雲の魅力を顕著に示すものである。

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